源信雅
源 信雅(みなもと の のぶまさ)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。 経歴白河院政期前期の寛治7年(1093年)馬権頭の任にあった際に昇殿を許される。永長元年(1096年)の大田楽においては、権右中弁・源重資らと共に小鼓を打った。承徳2年(1098年)右近衛少将に任ぜられ、承徳3年(1099年)加賀介を兼ねるが、長治元年(1104年)従四位下へ叙せられた際、少将を解かれたと見られる。その後、加賀(権)介のみを長く務めた。 鳥羽院政期に入り、大治6年(1131年)陸奥守に任ぜられるとともに、27年ぶりの叙位により従四位上に昇進する。長承3年(1134年)正月に正四位下に叙せられ、3月に鳥羽上皇の妃でる藤原泰子が皇后に立てられると、信雅は皇后宮亮を兼ねた。 保延元年(1135年)5月5日に陸奥守在任のまま卒去。享年57。最終官位は陸奥守正四位下兼皇后宮亮。 藤原忠実の家司を務め、その衆道の相手でもあったとされる。忠実が信雅とその子・成雅の容貌を比較して批評した逸話が伝わっている(『富家語』)。 官歴
系譜脚注出典
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