渡辺友水
渡辺 友水(わたなべ ゆうすい)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。武術・俳諧に通じた。 概要寛政4年(1792年)6月4日生まれ[1]。相川板町に住み、金蔵役、地方掛、小木定番役次席、金蔵定番役を歴任し、江戸には2度赴任した[1]。 剣術・槍術に秀で、水替掛在任中水替人足が脱走を企てると、山口番所に急行し、飾り槍を振り回して「佑左衛門ここにあり。汝ら、我が槍を食らってみよ。」と叫び、鎮圧した[1]。田付流砲術にも通じ、砲術操練の時には隊長を務めて中砲車台を提げ、数町に響き渡る大声で部下に号令し、これを見た奉行篠山景徳により屯所定番役を命じられた[1]。70代には心働流剣術を試みた[2]。 安田花狂には俳諧を学び、公務の傍ら1日に1句を詠んで「塵の山」と題し、嘉永5年(1852年)冬仮名詩と併せて「初心手引草」を編纂した[1]。 元治元年(1864年)6月16日73歳で死去し[1]、相川総源寺に葬られた[3]。 親族先祖は甲斐国武田氏家臣で、佐渡金山開発とともに佐渡国に渡った[3]。
脚注参考文献
|