添野義二
添野 義二(そえの よしじ、1947年9月29日 - )は、日本の空手家(士道館九段)・キックボクサーであり、世界空手道連盟士道館館長・キックボクシング「そえのジム」会長。極真会館出身で、城西の虎・極真の猛虎などの異名を持ち、山崎照朝と共に極真の龍虎と呼ばれていた[1]。 土方歳三に憧れていた事から一時期、添野 義三(そえの よしぞう)とも名乗っていた。士道館最高師範の添野達一は長男。 来歴埼玉県所沢市出身。1964年9月1日に極真会館に入門[注釈 1]。館長の大山倍達を筆頭に、大山道場時代からの師範代である石橋雅史・黒崎健時らが指導を行っていた。先輩には大山茂・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸らがいた。 1966年に城西大学進学後、同大学の空手道部を極真会館傘下に変更した。後輩に二期生の高木薫、三期生の三浦美幸・吉岡幸男、六期生に花澤明がいる。1967年4月15日に黒帯(初段)を允許された[2]。 1969年4月からNETは、TBS・日本テレビに続き、ワールドキックボクシングを放映すると決定した。NETはムエタイ選手や日本拳法空手道ら空手の各流派に出場要請をして選手集めをする他、極真会館へも同年2月に参戦依頼をしてきた。大山倍達は当時の高弟から山崎照朝・添野義二・及川宏を選出し、極真ジム所属として参戦させ、彼らは「極真三羽烏」と紹介された[3]。4月15日にデビュー戦を行い、沢村忠の連勝記録をストップしたムエタイのカンナンパイ・ソントーンに惜敗したが、試合内容から「沢村より強い」と注目を集めた[4]。キックボクシングの戦績は11戦9勝2敗9KOと本人は語っているが[5]、当時の月刊ゴングでは6勝3敗と紹介している[4]。高木薫は「添野義二先輩の組手は、自分も打つが敵にも打たせる、いわばパワーで押すタイプの組手だったので、試合が終わると1~2週間位は寝込むという日が試合毎に続いていた[6]」と語るとおり、添野のキックボクシングは「打たせて打つスタイル」であった。結局、試合後のドクターチェックで脳波に異常が見られると宣告され、キックボクシングから引退した[5]。同年9月20日、極真会館主催の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会では決勝リーグ戦で長谷川一幸に勝利したものの、山崎照朝に敗れ、準優勝で終わった。同年、都下埼玉支部長に就任。併せてキックボクシング「そえのジム」を開設した。 1970年9月26日の第2回全日本選手権では決勝リーグに進出するものの、山崎・長谷川に破れ、3位に入賞した。1972年10月22日、2年ぶりに出場した第4回全日本選手権ではBブロック決勝で佐藤俊和[注釈 2]と対戦。右中段前蹴りで技ありを奪われると、添野は必死に反撃して顔面にパンチを入れてしまう[7][注釈 3]。しかし、佐藤は怯む事なく前へ前へと攻勢に出たので、互いに一歩もひかない打撃戦を展開した[7]。添野は右膝蹴りを腹部に決められ、一本負けして5位に入賞[7]。これを最後に選手権大会から引退した。 1979年11月、第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では準決勝戦の三瓶啓二対ウィリー・ウィリアムスの主審を務め、再三の掴みによる膝蹴りを行うウィリーを裏投げして抑え、「失格」と反則負けを宣告した。 1980年9月、添野は極真会館から除名処分される(当時の段位は五段)。理由は「刑事事件を起こしたから」とされているが、添野は起訴されなかった。しかし、復帰が認められなかった事から「大山倍達と梶原一騎の対立のあおりで、添野がスケープゴートにされた」、「 (当時の規則で全日本チャンピオンは出身地に道場を開ける) を活用した 盧山初雄が川口市に支部を開設した。既に埼玉県内を管轄していた添野と盧山の間で争いが生じ、盧山に大山が肩入れした」など、本当の理由は別にあると当時は報道され、「添野を陥れようとした極真会館側の捏造であった可能性も高い」と報じるメディアもあった[8]。 1981年、会長に梶原を迎え新格闘術士道館を設立。後に真樹日佐夫らと世界空手道連盟を組織し、「世界空手道連盟 士道館」を設立し、現在に至る。 人物
主な成績
出演
関連項目
脚注
外部リンク |