深谷盛房
深谷 盛房(ふかや もりふさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。上杉盛房とも呼ばれる。
略歴家系は武蔵国の守護大名上杉氏の傍流である、深谷上杉家の子孫であった。 明和4年(1767年)、深谷盛朝の三男として誕生した。天明3年(1783年)に長兄の盛牝が早世したため、兄の跡を継いだ。 徳川家斉が将軍を襲封すると、盛房は重用された。寛政9年(1797年)に30歳で小納戸役となり、以後文政2年(1819年)二丸留守居、天保2年(1831年)に京都町奉行を歴任し、さらに天保8年(1837年)に66歳で勘定奉行、弘化元年(1844年)73歳で旗本最高役職とも言われる大目付に、と高齢になっても才を買われて幕府重職を歴任した。 海防掛も兼任し、嘉永6年(1853年)のアメリカ合衆国使節のペリー来訪、いわゆる「黒船来航」時は穏便な方針を主張したとされる。
長子は早世しており、後は別の子の盛徳が継いだ。 登場作品
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