深尾重先
深尾 重先(ふかお しげもと)は、江戸時代後期の土佐藩の重臣。深尾家当主・佐川領主10代。 略歴嘉永6年(1853年)に伯父の9代当主・深尾重教が死去した際、重教の子の重愛は幼かったため、重先が養子に入り家督を継ぐ。その際、重愛は重先の養子となる。 安政2年(1855年)、奉行職に就く。勤王家で尊攘論が沸騰し、万延元年(1860年)、藩より蟄居を命じられたため養子の重愛が一時家督を継ぐが、文久2年(1862年)に処分が解かれ復職し、山内容堂に用いられた。そのため重愛は継嗣に戻っている。 慶応3年(1867年)、徳川慶喜が将軍職を辞した時、容堂に従って上京し尽くすことが多かった。鳥羽・伏見の戦いでは、容堂と共に土佐兵を抑えようとしたが、水泡に帰す。慶応4年(1868年)2月の堺事件には容堂に代わって事を処し、同年3月に京師詰を命じられ、7月に参内し土佐藩重臣として藩主を補佐した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還後の諸政改革にも力を用い、功績を挙げた。明治4年(1871年)に隠居し、再び重愛が家督を継いだ。 明治23年(1890年)1月30日、死去。享年64。南洋拓殖社長や日本サッカー協会会長等を務めた深尾隆太郎は嫡孫[2]。 脚注
出典
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