波多野鶴吉
波多野 鶴吉(はたの つるきち、安政5年2月13日(1858年3月27日)- 大正7年(1918年)2月23日)は、明治・大正期の実業家。郡是製絲(現:グンゼ)の創業者、第2代社長。兄は衆議院議員、郡是製絲初代社長第7代羽室嘉右衛門。弟は比叡登山鉄道株式会社初代社長羽室亀太郎。養子に参議院議員、郡是製絲第4代社長波多野林一。義理の甥に衆議院議員岡田泰蔵。孫は哲学者の波多野一郎。 先祖は丹波国多紀郡の大名、波多野氏。波多野秀治の弟、波多野秀香(二階堂秀香)の後胤。 略歴
人物1858年(安政5年)に 丹波国何鹿郡綾部町(現・京都府綾部市)の綾部藩筆頭大庄屋、札元、掛屋、名字帯刀御免、羽室嘉右衛門家の六代羽室嘉右衛門の次男として生まれた。羽室嘉右衛門家は1885年(明治18年)に京都府第6位地租税納税、1898年(明治31年)京都府第11位の多額納税者であった。実兄は、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人で明瞭銀行頭取、後に郡是製絲株式会社の初代社長となる七代羽室嘉右衛門。 幼少より勉学に親しみ、8歳で同じ何鹿郡の資産家で母の実家の分家の波多野家の養子に出され、18歳で京都市内に出る。しかし、遊興に耽り、養家の財産を食い潰したとも言われているが、「啓蒙方程式」などの書籍の出版や士族の服部直など共に京都交絢会を組織して自由民権運動に携わるなど行ったが、すべてうまくいかず、失意の中で綾部に帰郷した。当時はすでに波多野家の娘、葉那(もしくは花、はな)と結婚していたが、自らの失敗で養家の財産を失っていたので、帰郷後は妻の葉那(はな)と共に生家の羽室家に寄宿するような状態だった。 その後、請われて小学校の代用教員となり、その後は地域産業の蚕糸業に深く関わることとなる。教員時代に、子供たちの日中に居眠りの原因が家業(養蚕)の手伝いで日夜忙しいためと知ると、子供の教育のためには地域が豊かになる必要があり、その道筋として地域の蚕糸業振興が必須と考えたとの逸話がある。その後、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に就くと他産地より劣っているとの評価だった何鹿郡の蚕糸改良を推進。組合内での会社設立を提唱も全体の賛同が得られなかったため、自ら実家の羽室嘉右衛門家の支援を受けて「郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)」を設立し、取締役会において初代社長に明瞭銀行頭取であった兄の羽室嘉右衛門を選任した。社名の『郡是』は、郡の方針や方向性という意味で、元農商務省の官僚で「殖産興業の父」と呼ばれた前田正名の地方遊説の演説を聴いて感銘を受け、周囲の反対にも動ぜず『郡是』の名称にこだわった。会社設立時から株式会社制度でスタート、1株20円で地域の養蚕農家から小口出資を仰ぎ、郡内最大地主でもある羽室嘉右衛門家の資産、信用を背景に、ようやく資本金98,000円を集めた。工場の稼動より出資金の方に時間を要したため、出資金が揃った8月10日を創立記念日としている。 工場で実際に働く工員は、出資に賛同した養蚕農家の子女が中心で、その人格形成や教育啓蒙を重んじて、“自分の娘と思い大切に育て、立派な人間にして実家にかえす”という信念で経営に努めた。この背景として、会社設立前の32歳の時にキリスト教に入信したことが大きく影響している。自分の前半生の反省にたち、自分の周囲の人たちとの関わりの重要性や人間愛に目覚め、”人間尊重と優良品の生産を基礎として、会社をめぐるすべての関係者との共存共栄をはかる”という創業の精神を示し、これを会社の柱とした。この明治中期にすでに現代におけるステークホルダーの考え方を持つ稀有な極めて経営者であった。実際に“工女”(グンゼでは”女工”でなく、工女さんと呼んで大切にしていた)教育を重要視、会社内に教育部を設置して高名な教育者である川合信水を招聘し、自らもその教えを受ける形で社内教育を推し進めた。”善き木に善き果が実り、善き人が善き糸をつくる”として人格形成こそが優良品の基礎であると盛ん述べていたといわれる。 最も彼の後半生のスタンスを示す逸話として、安田財閥の安田善次郎との会見がある。日露戦争の際に経営悪化して破綻に瀕した第百三十銀行の救済に安田財閥が乗り出すこととなり、現状視察の目的で安田善次郎自ら丹後に赴き、その際に同行の最大融資先の一つであるグンゼに立ち寄った。社長の鶴吉と会見、善次郎は同行の帳簿を眺めながら極めて少ない担保に対して莫大な融資残高がある点を問い質した。それに対して鶴吉は「確かに当社は商品在庫や原料、また高い設備などはないが、帳簿には載っていない素晴らしい従業員が多くおり、これこそが当社の最大の資産である。」と答えた。善次郎は、「金融家の私に人を資産として見よとのご意見か?」と問い直すと「其の通り」と鶴吉が述べた。この鶴吉の経営姿勢と率直さに善次郎は大いに感銘を受け、その場で新たな担保を取らずに融資継続を決定したといわれている。 また、生糸(シルク)が活況に呈している時期に、すでに合成繊維の登場とその影響による製糸業の衰退を予見し、次なる事業の柱を模索していたともいわれ、同時にいかに地域、社会に貢献すべきかを常に自分に問い、行動していた。彼にとっては『郡是』(= 地域振興・社会貢献)が第一であり、製糸業はその手段の一つという考えで、時代や環境の変化に合わせて事業は変遷してよいと考えていた。実際、彼が創業した現グンゼは事業転換を繰り返しながら、会社設立から120年経過した今でも着実に経営存続している。 出生地の綾部市では、波多野鶴吉夫妻を主人公とする連続テレビ小説の誘致活動が進んでいる [1]。 脚注
関連書籍
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