波多野秀尚波多野 秀尚(はたの ひでなお、? - 天正7年6月8日(1579年7月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将[1]。波多野元秀の次男。諱は「秀直」とも書く[1]。 概要永禄11年(1568年)に織田信長が上洛すると、波多野氏は一旦信長に従うも、天正4年(1576年)1月に離反する[2]。 秀尚は、天正6年(1578年)3月より兄・秀治とともに八上城に籠城し、織田氏の家臣・明智光秀の軍勢と戦った[1]。八上城を包囲する小畠常好らに宛てられた明智光秀書状[注釈 1]は、「波多野兄弟」を逃がさぬよう持ち場を厳守することを命じる内容だが、この波多野兄弟は秀治と秀尚であると推定されている[4]。 1年以上に及ぶ攻いの末、天正7年(1579年)6月1日、八上城は落城した[5]。秀尚は秀治とともに安土に送られ、磔刑に処せられた[6]。辞世は「おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば」。 脚注注釈出典
参考文献
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