波多野清秀
波多野 清秀(はたの きよひで、嘉吉3年(1443年) - 永正元年7月24日(1504年9月2日)[1])は、室町時代の武将。清秀に当たる人物の名を「秀長」とすることもあるが[2]、一次史料にみられる波多野秀長は別の人物である。子に波多野元清、香西元盛、柳本賢治など。 生涯清秀の没後、清秀の肖像に画賛を記した月舟寿桂[3]によると、石見国の吉見氏の一族で18歳の時に上洛して細川勝元に仕えたという[4][注釈 1]。 清秀は勝元の命で母方の波多野姓を名乗り[6][注釈 2]、応仁の乱の戦功によって、勝元の子・政元から丹波国多紀郡を与えられた[8]。 文明17年(1485年)には丹波守護代・上原元秀のもと、多紀郡の小守護代として活動している[9]。また摂津方面にも勢力を伸ばし、摂津国野間荘時友郷の代官を務めた[10]。 以後、波多野氏は丹波国に勢力を拡大させていく。 永正元年(1504年)に62歳で没した[11]。 脚注注釈出典
参考文献
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