沮渠蒙遜
沮渠 蒙遜(そきょ もうそん)は、五胡十六国時代の北涼の第2代王。北涼の実質的建国者。 生涯臨松郡(現在の甘粛省民楽県)盧水胡[1]の出身。代々盧水胡族長を務めた家に生まれた。優れた才能があり、権謀に通じていたために後涼の懿武帝呂光らに恐れられた。このため常に酒を飲んで彼らの目を欺いたという。 龍飛2年(397年)、西秦討伐の失敗の責任を取らされて伯父の沮渠羅仇・沮渠麹粥兄弟が呂光によって誅殺されると、その葬儀の席で宗族数万人の前に呂光の非道を糾弾、後涼からの自立を宣言して挙兵。従兄の沮渠男成と協力して楽涫に迫り、後涼の建康郡太守だった漢人の段業を擁立した。これが北涼の建国である。 天璽3年(401年)に策を弄して沮渠男成と段業を殺害、自ら涼州牧・張掖公を称し北涼の支配者となる。 領域を西秦・南涼・西涼・後涼・後秦・夏・北魏に囲まれ、勢力拡大は困難であったが、強きに従い弱きを討つ巧みな外交を展開して領域を拡大、玄始10年(421年)に西涼を滅ぼして敦煌を支配下に入れ、河西地方全域を支配した。 西秦と対抗するために夏・北魏と提携する一方、江南の東晋・南朝宋へも遣使し涼州牧・河西王に封じられた。だが、承玄4年(431年)に西秦・夏が滅亡すると華北における北魏の影響力が増大したため、北魏に人質を送り涼州牧・涼王に封じられた。 義和3年(433年)に病死、享年66。北魏はその葬儀に使節を派遣し、武宣王と追諡した。 宗室高祖父
曾祖父
祖父
父
伯父
弟
従兄王后
子女脚注伝記史料 |