沓掛なか子
沓掛 なか子[1][2](くつかけ なかこ、1749年(寛延2年) - 1829年(文政12年)2月19日)[3]は、江戸時代中・後期の女流歌人、文学者[1][3]。または、沓掛仲子[3]。雅号は、一素(いっそ)[1][3]。 経歴生い立ち1749年に信州更級郡今里村(現長野市)で生まれた[1]。父は、更級郡今里村阿弥陀堂の床屋であった内村惣兵衛納悦(1716年-1793年)[1]。生みの母とは、なか子が3歳のときに別れ、その後は祖母に育てられたとされる[1]。なか子の著作『朧夜物語』によると、祖母の教えにより5歳のころから、「百人一首」や「三十六歌仙」の歌、『古今集』春の部などを暗誦できるようになった[1]。これを契機に、なか子自身も歌を作るようになった[2]。また、父惣兵衛の後妻中山氏も、義母としてなか子を育てた[1]。 1765年、なか子が17歳の冬、なか子は小県郡塩尻村(現上田市)の酒造家、沓掛久蔵従宣の二男道秀(当時28歳)と結婚した[1][2]。その翌年に分家し、埴科郡坂木宿の横町(現在の坂城町)に移り、「山根屋」という新たな屋号で酒造業を営んだ[1][2]。なか子は酒造業と同時に質屋も兼業した[1]。また、結婚したのちに、なか子は眼を患い、1787年には火災に遭っている[1]。さらに、その翌年に夫道秀と死別するなど、苦労が多かった[1][2]。 歌人・文学者としての活動幼少期に文学を志したなか子が、再び文学に励み書を著したのは、母としての役目を全うした後である[1]。多くの著書のなかで年代が明確なものは、すべて60歳以降に著しており、『孝女いは女物語』、『玉燭歌』、『東路の日記』、『家集』、『朧夜物語』などがそれにあたる[1]。なか子の作品は、俳句、紀行、評論などその分野は多岐にわたるが、その中心は和歌とされる[1]。なか子は、国学者である荒木田久老、その没後橘守部に和歌と国学を師事していた[2][1][3]。著書『玉燭歌』には橘守部による序文が記されている[1]。 晩年、死など1829年に老衰のため年81歳で死去[1]。法名は「良絃院一素妙琴大師」とされ、沓掛家の墓地に埋葬された[1]。 代表作
表彰脚注
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