池田長頼
池田 長頼(いけだ ながより)は、江戸時代前期の大身旗本。書院番を務め、3000石を知行した。1632年、兄である備中松山藩主・池田長幸の後継と相続をめぐる問題から刃傷事件を起こし、親族の脇坂安経を殺害したため、切腹を命じられた。 生涯池田長吉の四男として誕生[注釈 1]。長吉は池田恒興の三男で、関ヶ原の合戦後に因幡鳥取藩6万石の藩主となった。 慶長6年(1601年)、長頼は徳川秀忠に召し出され、書院番となって知行3000石を与えられた[3]。のちに西の丸[注釈 2]に出仕する[3]。寛永4年(1627年)、従五位下・豊後守に叙任[3]。 なお、慶長19年(1614年)に父の長吉が没し、兄の池田 刃傷事件寛永9年(1632年)4月4日、池田長幸(46歳)の容態が悪化したため、継嗣[4]や遺領の分知[5]についての遺言を定めて後事を託すべく、親族が招集された[4]。 長幸の嫡子(後継予定者)は長男の長常(24歳)であるが、長幸とは不和であった[6]。長幸は、長常が「病者」であるとともに、自らの意にかなわないとして[3]、6万5000石の領知の半分(『徳川実紀』によれば過半[6])を二男の長純に分ける意向であった[7]。親族たちはこれに同意したが[2]、長頼だけは納得しなかった[2][4]。 長頼の主張は、遺領は長男に残らず譲るべきであり、二男に過半を与えるのは道理が通らないというものであった(『徳川実紀』)[6][注釈 3]。親族たちは長頼を排除して評議に加わらせなかった[2][6]。憤慨した長頼は会合の席に押しかけて[6]刃傷に及び、脇坂安経(信濃飯田藩主・脇坂安元の継嗣)を殺害した[2][4]。 『寛政譜』の脇坂家の譜によれば、安経の兄である脇坂安信(美濃国内1万石領主。長純夫人の実父)は長頼を追いかけ、階上で斬り合いとなったが、安信は傷を負った上に階段から転落して気絶した[4]。 『徳川実紀』の記述によれば、長頼はまず長純に斬りかかり、長純は逃れた。その舅である脇坂安信が応戦し、長頼に斬られて負傷した安信は離脱した。また長頼は、居合わせた安経を斬殺した。長頼自身は傷を負うことなく、長幸の屋敷に立て籠った。屋敷の外にいた親族たちの従者は驚いて玄関から乱入しようとし、長幸の家臣たちがこれを阻止しようとするなど「騒動もってのほか」の事態となった。このことを聞きつけた縁者の堀直寄(越後村上藩主。長常正室の父[2][8][注釈 4])が、従者300人に棒を持たせて駆けつけ、双方を鎮めて事態を収拾した[6]。 長頼は、書院番の同僚4人(能勢頼隆・頼永・頼之兄弟[注釈 5]および山口光正)の監視下に置かれた[6]。4月6日[4]、脇坂安経を殺害し、多数を負傷させたことを罪として幕府は長頼に死を命じ、長頼は切腹した[6]。 刃傷事件の余波
池田家幕府は長頼に死を命じた一方、長頼の主張は道理があると認めた[6]。池田長幸は4月7日に死去[3]。8月26日、長常が家督とともに遺領のすべてを相続することが認められた[2]。池田長純(のち池田長教)の家はその後脇坂家に仕え、龍野藩(脇坂安政のとき飯田から移封。後述)の家老となった[10]。 寛永18年(1641年)、長常は男子のないまま33歳で没した[2]。『寛政譜』によれば、女子に婿を取って継がせることは末期養子として認められず、備中松山藩は改易処分となった[2]。長常の弟の池田長信は井原陣屋[注釈 6]1000石の旗本(井原池田家)となり、長吉系池田家の系譜をつないでいる[注釈 7]。 なお、長常の弟の池田長重は備中松山藩に仕えていたが、改易によって浪人した。明暦4年(1658年)に親族の分部嘉治(近江大溝藩主)を対談の席で殺害する事件を引き起こしている[2]。 脇坂家4月7日、脇坂安信には所領没収の処分が下された[4]。安信は5年後の寛永14年(1637年)に死去[4]。 信濃飯田藩主・脇坂安元は、継嗣としていた実弟の安経を喪った[5]。安元の実弟としてはほかに脇坂安総(安方)もいたが、安元は幕閣の実力者である堀田正盛の弟・脇坂安利を養子に迎えた[5]。安利は寛永13年(1636年)に早世したが、寛永17年(1640年)にはあらためて堀田正盛の二男・脇坂安政(8歳)を養子として迎えている[5]。脇坂家は安政の代の寛文12年(1672年)に播磨龍野藩に移され[14]、また堀田家との関係から願譜代となった[14]。 水野家騒動の現場には、長幸の娘婿である[15]5000石の旗本で、御側を務める水野 系譜特に記さない限り『寛政譜』に基づく[7]。 脚注注釈
出典
参考文献
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