池田長頼

 
池田長頼
時代 江戸時代前期
生誕 不明[注釈 1]
死没 寛永9年4月6日1632年5月24日[2]
別名 助三郎(通称[3]
官位 従五位下豊後守[3]
幕府 江戸幕府 書院番[3]
主君 徳川秀忠家光
氏族 池田氏(長吉流)
父母 父:池田長吉 母:伊木忠次
兄弟 長幸森寺長貞長政、長頼、長賢
久留島通春
長忠長氏
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池田 長頼(いけだ ながより)は、江戸時代前期の大身旗本書院番を務め、3000石を知行した。1632年、兄である備中松山藩主・池田長幸の後継と相続をめぐる問題から刃傷事件を起こし、親族の脇坂安経を殺害したため、切腹を命じられた。

生涯

池田長吉の四男として誕生[注釈 1]。長吉は池田恒興の三男で、関ヶ原の合戦後に因幡鳥取藩6万石の藩主となった。

慶長6年(1601年)、長頼は徳川秀忠に召し出され、書院番となって知行3000石を与えられた[3]。のちに西の丸[注釈 2]に出仕する[3]寛永4年(1627年)、従五位下豊後守に叙任[3]

なお、慶長19年(1614年)に父の長吉が没し、兄の池田長幸ながよしが跡を継いでいる。元和3年(1617年)、長幸は備中松山藩6万5000石に移された。

刃傷事件

寛永9年(1632年)4月4日、池田長幸(46歳)の容態が悪化したため、継嗣[4]や遺領の分知[5]についての遺言を定めて後事を託すべく、親族が招集された[4]

長幸の嫡子(後継予定者)は長男の長常(24歳)であるが、長幸とは不和であった[6]。長幸は、長常が「病者」であるとともに、自らの意にかなわないとして[3]、6万5000石の領知の半分(『徳川実紀』によれば過半[6])を二男の長純に分ける意向であった[7]。親族たちはこれに同意したが[2]、長頼だけは納得しなかった[2][4]

長頼の主張は、遺領は長男に残らず譲るべきであり、二男に過半を与えるのは道理が通らないというものであった(『徳川実紀』)[6][注釈 3]。親族たちは長頼を排除して評議に加わらせなかった[2][6]。憤慨した長頼は会合の席に押しかけて[6]刃傷に及び、脇坂安経信濃飯田藩主・脇坂安元の継嗣)を殺害した[2][4]

『寛政譜』の脇坂家の譜によれば、安経の兄である脇坂安信美濃国内1万石領主。長純夫人の実父)は長頼を追いかけ、階上で斬り合いとなったが、安信は傷を負った上に階段から転落して気絶した[4]

『徳川実紀』の記述によれば、長頼はまず長純に斬りかかり、長純は逃れた。その舅である脇坂安信が応戦し、長頼に斬られて負傷した安信は離脱した。また長頼は、居合わせた安経を斬殺した。長頼自身は傷を負うことなく、長幸の屋敷に立て籠った。屋敷の外にいた親族たちの従者は驚いて玄関から乱入しようとし、長幸の家臣たちがこれを阻止しようとするなど「騒動もってのほか」の事態となった。このことを聞きつけた縁者の堀直寄越後村上藩主。長常正室の父[2][8][注釈 4])が、従者300人に棒を持たせて駆けつけ、双方を鎮めて事態を収拾した[6]

長頼は、書院番の同僚4人(能勢頼隆頼永頼之兄弟[注釈 5]および山口光正)の監視下に置かれた[6]。4月6日[4]、脇坂安経を殺害し、多数を負傷させたことを罪として幕府は長頼に死を命じ、長頼は切腹した[6]

刃傷事件の余波

関連略系図
池田長吉
 
池田長幸
 
 
 
 
 
 
池田長常
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田長頼
 
 
 
堀直寄
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田長純
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
脇坂安元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
脇坂安信
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
脇坂安経
 
水野成言
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田長信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田長重
 
 
 
 
 
 

池田家

幕府は長頼に死を命じた一方、長頼の主張は道理があると認めた[6]。池田長幸は4月7日に死去[3]。8月26日、長常が家督とともに遺領のすべてを相続することが認められた[2]。池田長純(のち池田長教)の家はその後脇坂家に仕え、龍野藩(脇坂安政のとき飯田から移封。後述)の家老となった[10]

寛永18年(1641年)、長常は男子のないまま33歳で没した[2]。『寛政譜』によれば、女子に婿を取って継がせることは末期養子として認められず、備中松山藩は改易処分となった[2]。長常の弟の池田長信井原陣屋[注釈 6]1000石の旗本(井原池田家)となり、長吉系池田家の系譜をつないでいる[注釈 7]

なお、長常の弟の池田長重は備中松山藩に仕えていたが、改易によって浪人した。明暦4年(1658年)に親族の分部嘉治近江大溝藩主)を対談の席で殺害する事件を引き起こしている[2]

脇坂家

4月7日、脇坂安信には所領没収の処分が下された[4]。安信は5年後の寛永14年(1637年)に死去[4]

信濃飯田藩主・脇坂安元は、継嗣としていた実弟の安経を喪った[5]。安元の実弟としてはほかに脇坂安総(安方)もいたが、安元は幕閣の実力者である堀田正盛の弟・脇坂安利を養子に迎えた[5]。安利は寛永13年(1636年)に早世したが、寛永17年(1640年)にはあらためて堀田正盛の二男・脇坂安政(8歳)を養子として迎えている[5]。脇坂家は安政の代の寛文12年(1672年)に播磨龍野藩に移され[14]、また堀田家との関係から願譜代となった[14]

水野家

騒動の現場には、長幸の娘婿である[15]5000石の旗本で、御側を務める水野成言なりのぶ(成忠。備後福山藩主・水野勝成の二男)も居合わせた[6][15]。『徳川実紀』によれば成言は手をつかねて何もできず、失踪してのちに隠遁した[6]。『寛政譜』によれば、その座にあったことで罪に問われ、京都深草に蟄居した[15]

系譜

特に記さない限り『寛政譜』に基づく[7]

脚注

注釈

  1. ^ a b 『寛政譜』に長頼の享年は記されていないため生年不明。長吉三男(同母兄)の池田長政は天正17年(1589年)生まれという(同人の項目参照)。長吉五男の池田長賢は慶長9年(1604年)生まれである[1]
  2. ^ 元和9年(1623年)に徳川秀忠が将軍職を徳川家光に譲って大御所となり、江戸城西の丸に入った。秀忠は寛永9年(1632年)1月24日に死去。
  3. ^ 『寛政譜』では「嫡庶待遇すること道にあらず」[2]と記している。『寛政譜』によれば長常と長純は同母兄弟(母は森忠政の娘)である[2]。この「嫡庶」は、家督継承予定者である「嫡子」とそうではない「庶子」の意となる。
  4. ^ なお、堀直寄の二男・堀直時は長常の妹を夫人としている[2][8]
  5. ^ この3人は能勢頼次(当時は故人)の子で、能勢頼重(御使番)の弟である[9]
  6. ^ 井原村は備中松山藩旧領の一部であった[11]
  7. ^ 長信は別途幕府に仕えていたが、寛永19年(1642年)に1000石の知行を与えられた[2]。『寛政譜』の記載では、備中松山藩池田家は長常の代で断絶し、長信の家は別家の扱いであるが、19世紀に岡山藩池田家で編纂された「池田氏系譜」(岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵)によれば[12]、長常の家は長信が継承することが認められ、1000石の旗本となったと記す[13]
  8. ^ 『寛政譜』の久留島家の譜には、池田長頼に嫁いだ女子の記載がない[16]

出典

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十七「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.432-433
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十七「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.429
  3. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十七「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.428
  4. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第九百三十七「脇坂」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.930
  5. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第九百三十七「脇坂」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.931
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『大猷院殿御実紀』巻廿・寛永九年四月六日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』p.240
  7. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十七「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.428-429
  8. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1192
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百七十二「能勢」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.457-458
  10. ^ 大森映子 1998, pp. 143–142.
  11. ^ 井原村(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年3月9日閲覧。
  12. ^ 大森映子 1998, pp. 144, 126.
  13. ^ 大森映子 1998, p. 125.
  14. ^ a b 脇坂安政”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2024年3月9日閲覧。
  15. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.832-833
  16. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百五「久留島」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.165-166

参考文献

外部リンク