池田長準池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日)[1] - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 生涯嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去[2]。享年61。家督は養子長康(元岡山県令、貴族院議員千坂高雅の六男)が相続した。元旗本で賀陽郡長の花房職居に妹が嫁いでいる。 栄典人物書画や骨董の愛好家で、特に禅僧白隠慧鶴を私淑し、その筆跡を収集して自ら百陰居士と号した。 岩佐又兵衛作と伝わる「小栗判官絵巻」を所有していたが、明治27年から28年(1894年 - 1895年)まで日清戦争のため広島大本営に逗留した明治天皇が鑑賞したこの絵巻を気に入ったため、皇室へ献上、宮内庁三の丸尚蔵館へ収められた。小栗判官絵巻が別の又兵衛作の「池田屏風」・「和漢故事説話図」と共に池田氏に伝わった経緯は不明で、辻惟雄は千姫が注文主で、岡山藩主池田光政に嫁いだ娘の勝姫を慰めるため絵巻を注文し、岡山へ届けさせたとする仮説を立てている[4][5]。これに対して黒田日出男は辻の説明に反論、小栗判官絵巻は津山藩松平家(越前松平家)に伝来していたが、岡山県内に流出した所を長準が入手したのではないかと想定している[6]。 脚注
参考文献
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