池田運
池田 運(いけだ はこぶ、1928年 - )は、ヒンディー語文学の翻訳者でインド研究家。日印友好のために広く活動したことでも著名であり、代表的著作に『インドの農村に生きる』がある。一般社団法人日印サルボダヤ交友会員。 略歴池田運は、1928年(昭和3年)、熊本県の農家に生まれた。1945年(昭和20年)、旧制熊本県立中学校済々黌を卒業し、その後は、自宅で家業を手伝った。1949年(昭和24年)からは熊本県菊池郡西合志町の役場に勤務していた。 1956年(昭和31年)、熊本の篤志家児玉亀太郎の世話で、当時、東京大学の神谷慶治教授が主催していた「日印土の会」から、農業指導のために派遣される青年6名のうちの1人に選ばれてインドへ渡った。インドでは、マハトマ・ガンディーの思想に基づく農村開発運動であるサルボーダヤ運動に参加した。このとき、ガンディーの高弟で1952年にブッダガヤにサマンバヤ・アシュラム(調和道場)を開設したヴィノーバー・バーヴェー(Vinoba Bhave)やインド人民社会党の結成者でJP運動で知られるジャヤプラカーシュ・ナーラーヤン(Jayaprakash Narayan)など、インドの要人と知遇を得た。1961年(昭和36年)、日本に一時帰国して結婚。翌1962年(昭和37年)には妻をともなって再びインドに渡り、オリッサ州サンバルプル県に所在する日印両国政府提携の模範農場に勤務した。主著『インドの農村に生きる』は1964年、家の光協会から発行されている。池田は、インド農民と起居をともにし、ともに働き、便所の汲み取りまでおこなった。集落の人びとに石を投げつけられるような体験も味わっている[1]。 1965年(昭和40年)に帰国して、ヒンディー文学の翻訳に取り組んだ。また、インド要人が来日した際に通訳の支援をおこなうなど日印友好のために広く活動した。1973年(昭和48年)から1988年(昭和63年)にかけては、東京都国分寺市の中央線西国分寺駅駅前で「新宿中村屋」菓子店を営業するかたわら慶應義塾大学文学部で学び、1985年(昭和60年)に卒業している。文学士[2]。1988年の「新宿中村屋」閉店後はヒンディー文学の翻訳に専念している。 翻訳上のスタンスインド文化が日本に受け入れられない理由を、神名や人名を表記する際にヴァ、ヴィ、ヴェや長音が多用されているため、とみなしている。 ヴァ、ヴィ、ヴェという表記を廃し、長音の使用を抑え、彼が日本風で親しみやすいと考える表記法を用いることが日本とインドの文化交流に貢献するとしている[3]。彼が翻訳上で用いる表記ではシヴァは「シワ」、ヴェーダは「ベダ」、ラクシュミーは「ラクシミ」となる。 逸話
著書
訳書・解説書
脚注
出典外部リンク
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