池田武憲
池田 武憲(いけだ たけのり)は、江戸時代前期の岡山藩士。番頭、中老、仕置家老。通称は三郎左衛門、兵庫、内膳。池田内膳家初代。 略歴正保2年(1645年)、因幡国鹿野に池田輝澄の八男として誕生した。幼名は万千代。 父輝澄は播磨国山崎藩主であったが、寛永17年(1640年)お家騒動のため改易となり、甥の鳥取藩主池田光仲に預けられ、鹿野に堪忍料1万石を与えられていた。武憲は父の死後、寛文3年(1663年)に従兄の岡山藩主池田光政に仕え知行1000石。寛文9年(1669年)に1000石加増され番頭。天和3年(1683年)に1000石加増、元禄2年7月(1689年)にも1000石加増され、合わせて知行高4000石。仕置家老となる。任期中は対立する津田永忠の追放を画策した。元禄8年(1695年)7月22日没。享年51。 系譜家督を継ぐ男子が居ないため、元禄9年(1696年)に旗本池田政武の四男政矩が養子入りし名跡を継ぐも、宝永2年(1705年)池田政因に養子入りのため離籍した。その後に養子入りした善太郎(池田軌隆の長男)、豊次郎(池田綱政の十八男)、亀治郎(軌隆の次男)も相次いで他家(屋形池田家、生坂池田家、天城池田家、鴨方池田家)に養子入りのために離籍した。享保3年(1718年)、家老日置忠明の子森臻(勘解由)が養子入りして名跡を継ぐこととなった。 なお、武憲五女通子は番頭土肥貞平に嫁ぎ、有職故実家の土肥経平を産んでいる。 参考文献
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