永島慎二
永島 慎二(ながしま しんじ、1937年7月8日 - 2005年6月10日)は、日本の漫画家。本名:永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。東京市出身。愛称はダンさん[注釈 1]。長男はギタリストの永島志基。 生涯東京市滝野川区生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれる。小学校3年の頃から漫画家になることを志望。目黒区立第一中学校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある[1]。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた[1]。 同校を2年で中退[注釈 2]後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再会した目黒区立第一中学校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。 1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫画家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった[注釈 3]。初夏のその月のうちに“馬小屋の二階”を引き払い、実家に凱旋したが[注釈 4]、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。 1953年、若木書房に原稿を持ち込むようになり、出入りしていたつげ義春、遠藤政治と親交する。この頃から漫画家の集いに顔を出すようになり、新漫画党のメンバーや、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをら「劇画工房」のメンバーらと交友を広げる。1956年、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木光明らと同人グループ・かこう会を結成。手塚治虫の面識を得て、アシスタントを一時期務める。1957年、杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太、深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。 1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫画誌に数々の作品を発表し[注釈 5]、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇画風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿でフーテン生活を経験。のちにその体験を題材にした漫画「フーテン」を発表している。 1964年から1966年まで虫プロダクションに所属、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を担当した。 1967年より梶原一騎原作による『柔道一直線』を連載開始。TVドラマ化される。だが、1970年、作家性の違いにより連載を降板。 1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小学館漫画賞受賞。1973年テレビアニメ「ワンサくん」(虫プロダクション)のキャラクターデザイン。1974年、『漫画のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞受賞。 1980年11月16日、大麻不法所持で逮捕[2]。1980年代以降、漫画家としては半隠居状態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、将棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの会に参加したりなどしていた。将棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルのパイプを愛用していたが、自作のパイプも制作していた。 2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳没)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。 人物・作風
評価2003年放送の「BSマンガ夜話」において「漫画家残酷物語」が取り上げられ、いしかわじゅんや夏目房之介らにより評されている。同番組によれば、永島は貸本劇画や『COM』などにおいて漫画を自己表現として描き、同時代の青少年読者にとっては太宰治的な影響力を持ったという。また、作家の間でも一目置かれる存在で、手塚治虫をオマージュしつつもスタイリッシュな絵柄は後の漫画史においても影響力を持ち、モブシーンの中の群集を無人格に描いたり(いしかわじゅんによる)、空虚な心理を表現する為にキャラクターの目を白目にする(夏目房之介による)などの手法は永島が始めたという。また、絵の修行の為にアメリカに渡ったこともあり(その際に連載途中であった『柔道一直線』を休載。帰国後いったんは再開したが、結局は途中放棄する形となっている)、1980年代以降は挿絵の仕事が多くなる。好きなキャラクターはピエロだった。 1970年前後に活動した日本のロックバンドはっぴいえんどの作品の世界観に大きく影響を与えている。 主要作品年表1952〜54年
1955年
1956年
1957年
1958年
1959年
1960年〜
1961年〜
1962年〜
1963年
1964年
1965年
1966年
1967年〜
1968年〜
1969年〜
1970年
1971年〜
1972年〜
1973年
1974年
1975年〜
1976年〜
1978年〜
1979年
1980年〜
1990年〜
原作
主要単行本(漫画)
絵本
エッセイ映像化作品テレビドラマ 映画 弟子あだち充は永島のアシスタントになる予定だったが、あだちが上京したタイミングで永島が仕事を放棄した上、当時、日本からも逃亡しており、結果としてアシスタントになることはなかった。しかし、永島の追悼企画本を発案したのはあだちであり、同書に追悼原稿を寄せている。 その他
脚注注釈
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