比干

比干

比干(ひかん、生没年不詳)は、中国代の王族文武丁の子で帝乙の弟。帝辛(紂王)の叔父に当たる。は比で、干の国に封じられたので比干と呼ばれる。

史記』殷本紀によると、甥の紂王が暴政を行い、西のの西伯昌(後の文王)の勢力が増大していた頃、紂王を諌めたが聞き入れられなかった。周で文王が死んで発(後の武王)が立つと周の勢力はますます増大し、殷の他の者達は逃げ出してしまったが、比干は「臣下たる者は命をかけて諫言しなければならない」と紂王に対して諫言をした。しかし紂王はこれを聞かず、「聖人心臓には七竅(人の顔にある7つの穴)があるそうだ。それを見てみたいものだ」と言って比干を殺害し、その胸を切り開いたという。

その後、紂王は周の武王に討たれ、殷は滅亡した。武王は比干の墓に厚く土盛をして比干に対する哀悼の念を捧げた。武王が比干の忠烈を称え、比干の子の堅がその後を継ぎ子孫が林氏と称したと伝わる。

河南省衛輝市に比干廟(北魏時代の494年建立)がある[1]

論語』微子篇で、孔子は「殷に三仁有り」として、微子箕子とともに比干を讃えている。

封神演義』では、「微子徳」という子がいる設定にされている。

脚注