比企 三郎(ひき さぶろう)は、鎌倉時代前期の比企一族の武士。鎌倉幕府有力御家人・比企能員の子。実名については宗員とする説[5][6][注 1]や宗朝とする説[注 2]がある。
生涯
建久10年(1199年)、源頼家が十三人の合議制に反発し、狼藉不問などの特権を与えた取次役の5人に弟の比企時員や小笠原長経、中野能成らとともに選ばれている。正治元年(1199年)、頼家が鎌倉不在の御家人・安達景盛の妾を奪った際には、小笠原長経、中野能成、和田朝盛、細野四郎とともに加担。後に景盛が訴えを起こしたため、頼家より他の4人らとともに景盛追討を命じられた。この争いは頼家生母・北条政子の奔走によって回避されたが、後に政子は三郎ら頼家側近を「邪侫之属」と非難している。その後も頼家の近臣として名が見られるが、建仁3年(1203年)に比企能員の変が起こると時員ら一族とともに小御所に籠もり、北条氏方に攻められて討死した。
関連作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 『吾妻鏡』正治2年(1200年)2月26日条には「比企判官四郎宗員」、『比企氏系図』には「比企次郎宗員」という人物が出てくるが、比企三郎と同一人物かは不明。
- ^ 『北條九代記』『保暦間記』の建仁3年(1203年)9月2日条には比企能員の子息として宗朝という人物のみが出てくるが、能員の子息のうちどの人物に該当するかは不明。
出典
- ^ a b 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年、p66。
- ^ a b 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP新書、2021年、p129
参考文献