武蔵野新田(むさしのしんでん)は、江戸時代に開発された新田。享保の改革の一環として展開された新田開発政策において、武蔵野台地を中心に開発された享保期新田の総称で、享保期以前に設定された新田はこれに含まれない。総石高は1万2,600石余[1][2]。
武蔵国の多摩郡・入間郡・新座郡・高麗郡の4つの郡にまたがるもので、計82の農村がここに開拓された。その内訳は、多摩郡 40村、入間郡 19村、新座郡 4村、高麗郡 19村となっており、水田は少なく、陸田が多かった。新田出百姓の総戸数は元文4年当時で1,300程度[1][4]。
関東ローム層に覆われた武蔵野台地は土地が痩せていたため、百姓たちの生活は困窮し離散する者も多かったが、徐々に生産性が高まって生活も安定し、新田村として発展していった[1][5]。
沿革
享保の改革期に、江戸幕府は財政再建策の一環として、幕府領の耕地拡大による年貢米の増収を図ろうとした。
享保7年(1722年)の6月、南町奉行の大岡忠相と北町奉行の中山時春は、関東周辺の農政を掌る関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)に任命された[注釈 1]。地方御用掛として大岡は、治水や灌漑事業などに関する技能を持つ者(地方巧者と呼ばれた)を多数登用して、農業には不向きな土地の開発に着手する。その役人集団の主な活躍の場が、武蔵野新田であった[6]。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 翌享保8年(1723年)に中山時春が町奉行職を辞する同時に地方御用の役も御免となったため、大岡が1人で務めることとなる。
- ^ 元禄の貨幣改鋳を実施した荻原重秀の子。
- ^ この2人は、上総国東金領(千葉県東金市)の開発可能な土地があることを目安箱へ投書したことから岩出と荻原の元締手代となり同地の見分に同行した。
出典
- ^ a b c d 『国史大辞典』第13巻、吉川弘文館、608頁。
- ^ 大石学『吉宗と享保の改革』東京堂出版、226頁。
- ^ 安藤優一郎『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』NHK出版、99-100頁。
- ^ 安藤優一郎『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』NHK出版、99頁。
- ^ 安藤優一郎『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』NHK出版、97-98頁、100頁。西沢淳男『代官の日常生活 江戸の中間管理職』講談社選書メチエ、70、73-75頁。大石学『大岡忠相』吉川弘文館、149、151-152頁。同『吉宗と享保の改革』東京堂出版、95、184頁。同『享保改革の地域政策』吉川弘文館、216-218、252-256頁。
- ^ 大石学『大岡忠相』吉川弘文館、151、290頁。
- ^ a b c d e f g h i j 大石学『大岡忠相』講談社選書メチエ、163-172頁。『享保改革の地域政策』吉川弘文館、252-256頁。
- ^ a b c 大石学『大岡忠相』吉川弘文館 講談社選書メチエ、291頁。
- ^ 大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、262-272、273-284頁。
- ^ a b c 大石学『大岡忠相』講談社選書メチエ、292頁。
- ^ 大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、292-296頁。
- ^ 大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、296-302頁。
- ^ 大石学『吉宗と享保の改革』東京堂出版、225-226頁。同『享保改革の地域政策』吉川弘文館、303-306頁。
- ^ 大石学『大岡忠相』吉川弘文館 講談社選書メチエ、192-195、293頁。同『享保改革の地域政策』吉川弘文館、307-310頁。
- ^ 大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、307-310頁。
参考文献