武田馨
武田 馨(たけだ かおる、1892年(明治25年)2月22日 - 1959年(昭和34年)9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴滋賀県出身。1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し、参謀本部に配属された。後にドイツ駐在を経験した。 1936年(昭和11年)4月、留守第12師団参謀となり、同年8月、砲兵大佐に昇進。1937年(昭和12年)3月、野砲兵第5連隊長に就任し日中戦争に出征。1938年(昭和13年)7月、第8師団参謀長に転じ満州に赴任。1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し関東軍高射砲司令官となる。1940年(昭和15年)12月、陸軍防空学校長に就任し太平洋戦争を迎えた。 1942年(昭和17年)5月、東部防空旅団長に就任し、同年8月、陸軍中将に進んだ。砲兵監部付を経て、1944年(昭和19年)4月、第53師団長に親補され、ビルマの戦いに従軍。1945年(昭和20年)2月、教育総監部付となり、同年3月、新設の高射兵監に就任し終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 栄典
脚注参考文献
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