橘義通
橘 義通(たちばな の よしみち)は、平安時代中期の貴族・歌人。丹波守・橘為義の子。官位は正四位下・筑前守。 経歴寛弘5年(1005年)正月、蔵人所雑色に補任され[1]、寛弘7年(1007年)8月の除目で左兵衛少尉に任ぜられた[2]。寛弘9年(1012年)4月、蔵人・兵部丞であった義通は禁色を聴される[3]。長和2年(1013年)の春頃には、式部丞に任ぜられた。 左兵衛尉を経て、乳母子として敦成親王家の蔵人を務めるなど、親密な繋がりがあった親王が後一条天皇として即位した後の寛仁3年(1019年)3月、昇殿を聴された[4]。治安3年(1023年)頃には備後守を務めている。また、長元4年(1031年)には少納言に義通なる人物が就いているが、橘義通かどうかは不明である[5]。 その後、主殿頭を経て、筑前守に転じるが、在任中の治暦3年(1067年)2月17日、卒去。『後拾遺和歌集』に二首が入集する勅撰歌人でもあった。 系譜脚注参考文献
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