樋爪館
樋爪館(ひづめだて/ひづめのたち)または比爪館は、岩手県紫波郡紫波町日詰字箱清水にあった日本の城。紫波町指定史跡[1]。「ひづめ」の表記は樋爪のほかに、「比爪」「火爪」など複数見られる[2][3]。 概要「ひづめ」の語源は、当時この一帯が北上川の船場として栄えており、アイヌ語のピッツ・ムイ(河原の港)が転訛したものとされる[4]。 樋爪館(比爪館)は12世紀の館址で、規模は東西320メートル、南北290メートルの平坦な土地(現・赤石小学校の敷地を含む一帯)である。館の南側は五郎沼に接し、東は国道4号線に接する。発掘調査の結果、沼のある南をのぞく三方は幅10メートル前後、深さ1.5メートル前後の大溝で囲われていたことが判明している。 樋爪館に付随して大荘厳寺(だいしょうごんじ)と薬師堂があった。大荘厳寺は焼失してしまったが薬師堂は明治の神仏分離により薬師神社となった。創建当初からの薬師如来像があると言われているが、現在は御神体となっているため見ることができない[5]。 歴史・沿革樋爪館は、奥州藤原氏の一族の樋爪太郎俊衡・五郎季衡兄弟の居館であった。出土遺物の年代から、12世紀初めから後半まで存続したとされる。 文治5年(1189年)に奥州藤原攻めが開始され、源頼朝の軍勢が攻め寄せると、樋爪一族は館を自焼して北走した後に投降した(『吾妻鏡』)。 大正15年(1926年)には南接する五郎沼の浚渫の際に12世紀の土器(かわらけなど)や建材が出土し、1965年(昭和40年)から最近まで、紫波町教育委員会により32次にわたり調査が行われた。 従来の通説では、平泉から樋爪に移ったのは俊衡の代とされてきたが、最新の発掘調査による研究(未報告)では、1100年代前半(父の藤原清綱)の時期のかわらけが出土していることから、平泉初代の清衡の頃から同地に居を構えていた可能性が高くなった[6]。 五郎沼樋爪館跡にある五郎沼には、かつて樋爪五郎季衡がよく泳いでいたとの伝承が残る。同沼は川の氾濫を防ぐと共に灌漑用水池として人工的に作られた可能性が高い。現在は6ヘクタールほどだが、往時は12〜16ヘクタールもあったと言われる[7]。五郎沼の傍らには小さな蓮池がある。これは中尊寺金色堂に安置されていた藤原泰衡の首桶から発見された蓮の種を同寺から譲り受け、2002年(平成14年)5月休耕田に移植したもので、「古代蓮」の通称がある。蓮の種は800年以上の時を超えて発芽・生長して開花し、現在では毎年7月に蓮の花が咲き誇る[8]。 奥州合戦と樋爪一族『吾妻鏡』によれば[3]、源頼朝が奥州攻めを行った文治5年(1189年)の9月4日、頼朝軍が紫波郡に差し掛かったと聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館(樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝は三浦義澄、義連、義村などを遣わし、同日に陣岡蜂杜(現・紫波町の陣ヶ岡公園[9][10])に陣を構えた。11日、頼朝は陣岡を引き払い厨川柵へ向かったが、15日に樋爪太郎俊衡入道が弟の五郎季衡、息子の太田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡、季衡の息子の新田冠者経衡などを連れて厨川の頼朝陣所へ降伏の意を示して訪れた。年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い、家臣の八田知家に預けたが、俊衡は法華経を唱える以外は一言も話さなかった。翌16日、信心深かった知家から俊衡の様子を伝えられた頼朝は、それまで処置を迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め、18日に頼朝は俊衡などの処置について京に伺いの使者を向かわせた。 10月19日、頼朝は鎌倉への帰途に宇都宮二荒山神社へ立ち寄り、戦勝祈願のため荘園を一つ寄進することを誓ったといい、樋爪の一族をその職に就けた(誰がその職に就いたかは記されていない)。 12月6日、頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日、18日付で京の朝廷より案の通り宣下が下された。その内容は以下の通り。 末裔のその後以下は、紫波町平泉関連史跡連携協議会『紫波の歴史は面白い!!平泉関連編』にある、樋爪氏のその後についての概略である[11]。出典には疑問もあるが記載する。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |