榛名神社
榛名神社(はるなじんじゃ)は、群馬県高崎市榛名山町にある神社。式内社、上野国六宮で、旧社格は県社[1]。 概要赤城山・妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社で、現在の主祭神は火の神・火産霊神と土の神・埴山姫神である[1]。水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合わせ祀る。 境内から古代の僧坊の遺跡が出土しているように古くから神仏習合の体をなしており、中世以降は「満行権現」と称され本地は地蔵菩薩とされていた。近世には榛名山巌殿寺という寺院として扱われ、境内に三重塔(神宝殿)が現存する。 近世には祭神は上段に埴山神、中段に国常立神・伊弉諾神・伊弉冊神・大己貴神、下段に饒速日尊・彦湯支神とされていたが、『榛名山志』では東相殿に饒速日尊、中殿に元湯彦命、西相殿に熟真道命と記されている[2]。明治元年に現在の二柱に改められた。 歴史古代『榛名神社社記』によれば、綏靖天皇の時代に饒速日命の子・可美真手命父子が山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりとされ、用明天皇元年(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられている[3]。 榛名神社の文献上の初見は延長5年(927年)完成の延喜式神名帳で、上野国十二社のうち群馬郡小社として記載されている[4][3][5]。榛名山は古代には「いかほのねろ」と呼ばれており、延喜式神名帳には榛名神社以外にも榛名山を信仰の対象とするとみられる神社として群馬郡小社の伊香保神社(上野国三宮)の名が見える[6]。このような2社の存在は伊香保神社による渋川側からの水沢山を対象とする信仰と、榛名神社による高崎側からの相馬山を対象とする信仰が併存していたことを示しているとみられている[5]。尾崎喜左雄は祭祀主体として古代豪族を想定し、伊香保神社を有馬氏、榛名神社を車持氏によるものと説明している[7]。このように、古代には榛名山を祭祀対象として、豪族の居住地に近い山の麓で祀られていたとみられている[8][9]。 現在のような山中で祀られるようになったのは、仏教、特に密教との関係によるものと考えられている[8]。榛名神社境内の参道西側、獅子岩の前後に平地が段々に作られており、そこからは小金銅仏や寛平大宝が出土して「榛名神社巌山遺跡」と呼ばれている[10]。この遺跡は僧坊跡と推定されており、9世紀に修験の道場として開かれたと考えられている[3]。 長元年間(1028年 - 1037年)成立と推定される『上野国交替実録帳』(九条家本『延喜式』裏文書)群馬郡の項に「正 位椿榛明神社」とあるのが当社であると考えられており、玉殿・幣殿・鳥居・美豆垣・荒垣など社殿が整えられていたことが確認できる[11][12]。 中世榛名神社に所蔵される文書で最も古いものは建久元年(1190年)に上野国留守所から発給された「上野国留守所下文」で、「榛名寺領内」では健児・検非違使の入部を拒否できるという内容である。この時点で既に榛名神社が神仏習合によって榛名寺という寺院となっていたことを示している[13]。ただしこの文書は寛政年間に榛名神社に納められたもので[14]、疑義も示されている[15]。 榛名神社の神仏習合を示す品として、当社所蔵の8面の御正体がある。12世紀の白銅藤花房松鶴鏡に十一面観音坐像を鎌倉時代初期に毛彫りしたものが最も古く、他に13世紀中期とみられる十一面観音坐像を毛彫りした円鏡、像は失われているが弘安4年(1281年)の銘があるものなどがある[16]。 南北朝時代成立の『神道集』巻3第16「上野国九ケ所大明神事」にも榛名神社の本地についての記述が見える。その中では「春名満行権現」は上野国六の宮で本地は地蔵菩薩とされている[17]。榛名神社境内の元亨3年(1323年)在銘の鉄灯籠(群馬県指定重要文化財)の銘文にも、「満行権現・・・本地恵生利生菩薩」という文面がある[18]。 中世の榛名寺は座主の地位にある僧侶が支配を行い、座主一族は藤原道長の子孫を称していた。鎌倉時代末期から南北朝時代初期に座主を務めた快忠については、榛名山墓地に暦応4年(1341年)の紀年銘のある宝塔(榛名塔)が現存している。快忠の娘の子として生まれ、山中の争いに勝利して座主と執行職を兼務した頼印については『頼印大僧正行状絵詞』をもとに詳しいことが伝わっている[19]。頼印は応安7年(1374年)に榛名山執行職補任の下文、綸旨、道承(師)の譲状の紛失を申し出ており、同職の補任はこれら3通の文書で行われたものとみられる[20]。 →詳細は「頼印」を参照
榛名寺座主の支配する領地は座主領と寺領があり、史料中にはそれに含まれる地名として石神(高崎市倉渕町三ノ倉の字)・石津(高崎市倉渕町産三ノ倉・権田の字)・毛呂田(室田)・中山(不詳)・三倉(三ノ倉)・花香塚(現・太田市新田花香塚町)などが見える[20]。ただし、鎌倉公方・足利持氏書状には木部弾正左衛門入道々金が俗別当職と寺領の安堵を求めていることが見え、その頃には俗別当職が置かれて寺領の経営を行うようになったことで武家が榛名寺を支配するようになり、座主は廃止されたか権限を大きく縮小させたとみられている[21]。 戦国時代には上杉憲房、長野氏、武田氏、真田昌幸、北条氏邦といった周辺地域を支配した戦国大名が山内での乱暴狼藉を禁止する制札を発している[22]。 中世史料では寺号は「榛名寺」「巌寺」「石殿寺」「巌殿寺」などと見え、一定していなかった[23]。 近世榛名山巌殿寺という呼称が確定するのは江戸時代のことである。慶長19年(1614年)、天海によって巌殿寺として再興が行われ、光明寺が学頭、満行院が別当となって天台宗となり、寛永寺の支配下に組み込まれた。学頭に任じられた光明寺(高崎市中里見町)はのちに別当も兼務するようになった[24][25]。ただし、寛永寺によって任命される学頭・別当は実際には榛名山に赴任せず、「御留守居」が任命されて派遣されることが多くなった[26]。 近世は山内に5か院(中之坊、実相院、金剛院、満福院、円乗院)の寺院が置かれ、大坊・般若坊ら御師が活動して[27]榛名講(後述)が広まりを見せた。 近現代慶応4年(1868年)5月に榛名山別当・学頭であった光明寺に新政府より通達があり、岩鼻県知事・大音龍太郎の指示のもと神仏分離が進められた[28]。9月には榛名山で仏体の取り片付けが行われ、登山してきた光明寺に什物が渡され「覚え」の取り交わしと餞別の宴が催された[29]。 明治3年(1870年)5月10日、新たに神職に任命された穂積豊秋(元鈴木三郎)、榛名山取締に任命された新居守村が赴任し、神仏分離を徹底した。新居守村の『春名山日記』『神のめぐみ』によれば、木造仏を集めて燃やしたり、石仏を谷に落としたり、鐘を鋳つぶすなどしている。「神宝殿」という名称となっていた三重塔も2・3層部分を取り払われるはずだったが、実行されず現在も三重塔の姿をとどめている[30]。 明治13年(1880年)9月に開設願が提出されて設立された榛名神社教会は、昭和27年(1952年)の宗教法人法制定後は宗教法人神道大教を包括団体として、16の坊が宗教法人となったが現在は1件が抜けて15の宗教法人となっている[31]。 2017年度から2025年度にかけて群馬県内にある文化財の修復事業としては過去最大規模となる総額23億円をかけて百数十年ぶりに大修理を行う。17年度から19年度までに国祖社・額殿、20年度から21年度までに双龍門、21年度から25年度までに本社・幣殿・拝殿、23年度から25年度までに神楽殿の工事を行う予定である[32]。 榛名講江戸時代には榛名神社を信仰する榛名講が関東甲信越・陸奥国に広がりを見せた[33]。榛名講の普及には参道の各坊の御師が大きな役割を果たした。榛名山の御師の初見史料は天正8年(1580年)の伊勢御師・三日市太夫次郎秀長から榛名山御師・光吉に宛てた文書であり[34]、寛永13年(1636年)の「般若坊分家ニ付旦那場書上帳」には講についての記述が見える[35]。坊はそれぞれが自身のテリトリーである「檀那場」を持ち、最大で年4回檀那場の村々を回り、初穂料を集めて札を配布した[36]。講の村では榛名日待と称して講員が1軒に集まって榛名神を祀り、代表者2名ほどが榛名山に参拝を行った[37]。これを代参講と言い、多くの場合は2月から5月に行われた[38]。代参に来た者は御師の坊に宿泊して参詣を行い、授与された神札を持ち帰って講中の他の者に配布する[38]。近隣の村から来る場合や、伊香保温泉に宿泊する場合は日帰りの「昼代参」が行われることもあった[39]。また代参講を繰り返し、講員全員が参拝を経験すると、翌年に全員で参拝する太々講も行わることがあった[40]。 講の総数は10,620に及んだ[41]。江戸の商人たちで構成された「江戸太々神楽講中」は鞍掛岩に祀られていた鞍掛不動尊の石像を再建し、その講員でもあった塩原太助は参道の石玉垣の寄進や天神峠に石灯籠の寄進をするなどしている[42]。 江戸時代に78軒があった御師数は明治3年(1870年)に26坊61軒となり、現在宗教法人として登録されているのは15軒である[43]。 江戸時代の宿坊としては一宮家住宅(般若坊)主屋・長屋門や門倉家住宅(善徳坊)主屋が現存するほか、江戸時代の別当所であった[44]鐸木家住宅(本坊)門も現存しこれらは登録有形文化財となっている。 文化財重要文化財(国指定)
国の天然記念物群馬県指定文化財高崎市指定文化財
年間祭儀
他の榛名神社当社より勧請を受けた同名社が、群馬県を中心として日本各地にある。 脚注
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク
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