森誓夫森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年1月23日)は、日本の官僚、実業家。元通商産業省軽工業局長。元石油資源開発社長。 来歴・人物香川県三豊郡常磐村(現 観音寺市流岡町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。 1934年(昭和9年)商工省入省。特許、貿易、工務、機械、電力の各局を担当、電業課長、機械課長を務める[1]。1939年(昭和14年)三豊中学の同級生であった蒙疆の張家口に勤務する大平正芳(大蔵省派遣の興亜院事務官)を訪問[2]。 1943年(昭和18年)フィリピン島戦線に応召。三豊中学の頃から親しんで来た短歌に於いては、社会人になって間もなく斉藤茂吉が育てた結社「アララギ」に所属。在比3年間に作った短歌378首を後に『歌集 南溟』に編纂。その内6首が、『昭和萬葉集』(講談社)に採択される。 戦後、通商産業省機械局車輌部長に異動。1950年(昭和25年)通商協定改定の為にタイへ出張。1951年(昭和26年)機械工業使節団長としてインドとパキスタンにも出張する。帰国後、物価庁第三部長に昇任[1]。通商産業省公益事業局次長、同省鉱山保安局長、札幌通商産業局長、経済企画庁審議官、同省鉱山局長を歴任。1957年(昭和32年)同省軽工業局長に就任[3]。 1959年(昭和34年)通商産業省退官。日本電気顧問、日本アビオトロニクス常務、共同石油社長を務める[4]。 1974年(昭和49年)石油資源開発第3代社長に就任[5]。新潟県の阿賀野川河口の沖で、大規模な大陸棚油、ガス田の開発を行った[6]。また、総理大臣官邸に大平首相を訪問してエネルギー政策について論じている[7]。 略歴
座右の銘
人の短所を言わず、自分の長所も言わないでおこう。人に物品を与えたことは気に掛けず、与えられたことは注意して忘れないようにしよう。世間での誉れというものは追い求める価値などなく、仁をこそ基準としよう。 考え抜いてから行動に移せば、誹謗など何時も気にすることもなかろう。評判が実際を上まわらないようにしよう、愚直であろうとするのは聖人が良しとしたことであるから。どす黒い環境にあっても、それに染まらないようにしよう、(それでいて)外見は暗愚のようにして明哲さを保持しておこう。 なよなよしたさまが生きているものの姿であり、かたくななさまは老子が誡めたものである。かたくなな何も分からない人の志は、遠い先のはかりしれない(禍の)種である。言葉遣いに注意し飲食を節制しよう、ほどほどの満足に心掛けていれば、良からぬ事にも合わないだろう。 行いに(このような)基準があれば、末々うまくいくだろう。 (後漢の人である崔子玉がのこした『座右銘』)[8] 栄典著書
脚注
参考文献
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