森 清右衛門(もり せいえもん)は慶長5年より代々家業として人夫馬請負業を営んだ有馬屋当主の名。本項では主に、多くの鉄道土木工事を手掛けた十三代目について記述する。
人物
先代・清右衛門の長男・吉太郞として1859年3月15日(安政6年2月11日)江戸は神田に生まれる。大原伯爵の私塾にて漢籍を学び、神田の共立学校にて英学を修めた[1]。1874年(明治7年)の台湾征伐の際、有馬屋は大倉喜八郎より人夫の調達を請負う。多くの積荷と従軍人夫500名[注 1]を乗せた米国籍の汽船・ニューヨークは横浜港から出港。有馬屋父子も帯同してこのまま渡台するはずであったが、中継地の長崎で問題が発生[注 2]。不測の事態を避けるため父は戻ることになり、吉太郞がその名代として台湾へ渡った[注 3]。
有馬屋は明治に入って運送業より土木工事の請負いに軸足を移す。1882年(明治15年)には日本鉄道の荒川橋梁工事にて職工人夫の供給を請負い、これが有馬屋が鉄道工事に関わった最初となった。次いで両毛鉄道、東海道線国府津付近、碓氷峠などの工事を請負って実績を積む。吉太郞は1889年(明治22年)7月に家督を継ぎ、十三代・清右衛門を襲名[4]。日清戦争の頃に屋号を有馬屋から有馬組へと改めた[5][注 4]。
1893年(明治26年)8月に起工した北陸線の敦賀 - 森田間。従来の鉄道工事とは違って隧道(トンネル)のある区間だったので、その経験なしでの入札は出来なかった。そこで清右衛門は、同業かつ台湾征伐時に一緒だった元大倉組の橋本忠次郎[注 5]に相談。隧道工事経験を持つが夕張線工事の失敗で無一文となり、当時大阪の村上彰一[注 6]宅に居候していた沢井市造[注 7]を紹介される。沢井は有馬組の工事部長として入札に参加し、無事受注[6]。1896年(明治29年)7月に開通した。
1896年(明治29年)当時国内最長にして最難関[7]と言われた中央東線の笹子隧道工事においてはその労働力の供給を一手に任され、1902年(明治35年)に竣工した際には鉄道作業局長官の松本荘一郎より極めて異例の賞状が贈られた[8][注 8]。1899年(明治32年)に鉄道請負業者が集まり日本土木組合が設立されると、鹿島組の鹿島岩蔵が頭取に、清右衛門は副頭取に就任[9]。有馬組は1900年に起こった北清事変においても軍夫の供給を請負い、1904年(明治37年)4月より朝鮮京義線の工事にも携わった[8][注 9]。だが1905年(明治38年)の日露戦争終結の頃には有馬組は支払いに窮し、ついに事業を整理する事態となる。しかしこのまま潰してしまうよりは債権回収の可能性があろうという債権者たちの考えもあり、1906年(明治39年)10月に資本金20万円にて合資会社有馬組[注 10]が新たに設立された[11]。清右衛門はその無限責任社員となる。
その前年7月には同じく合資会社の有馬組汽船部を設立[10]。汽船一隻を持ち、海運及び中国南洋との貿易にも手を広げている[5]。1919年(大正8年)10月、台湾で造林業を行う台陽殖産株式会社を設立し清右衛門は社長に就任[12]。1926年(大正15年)11月には京城府に長男・清太郎を代表とする合資会社朝鮮有馬組が設立された[注 11]。その他、清右衛門は東京商業会議所会員[14]、東京府会議員(神田区選出、1891年5月 - 1895年12月)[15]、豆相人車鉄道や横浜電気鉄道の取締役[16][17]なども務めている。1936年(昭和11年)7月16日病没[8]。
清右衛門は普段より装いに気を使い、モーニング着用の際は胸にシルクのハンカチーフを挟むことを忘れなかった。また茶道を嗜み、碁は初段の腕前、和歌を井上通泰に学んだ[5]。
台湾従軍
東京へ帰った父の名代として人夫を取りまとめ上陸した1874年(明治7年)の台湾の地。交戦が予想より遥かに少ないのは良かったが、娯楽も何もない場所で皆退屈を持て余していた[18]。男ばかりの中でその頃満15歳だった吉太郎は紅顔の美少年として持て囃され、将校たちから酒宴の度に呼ばれては侍らされ大変な思いをした。なんとか逃れたい一心で日々隠れ潜んでいたところ、これを見かねた記者の岸田吟香[注 12]が、日本へ帰る運送船にこっそりと吉太郎を乗せ帰国させた。翌日上層部に呼び出された岸田であったが、堂々と抗弁し処分を免れている[19]。
家族・親族
有馬屋の祖先は徳川家康の下その武勇で名を馳せた本多忠勝の家臣であり、関ヶ原の戦い時には輜重方を務めたと伝わる。その後、武士をやめ町人となり人夫馬供給の請負業を始めるにあたり、主君・忠勝より「有馬屋」の屋号を賜った[6]。
- 父である十二代清右衛門は悲劇の歌舞伎役者として知られた三代目・沢村田之助に出資し、1873年(明治6年)の沢村座開場を援助した[20][注 13]。
- 長男・清太郞(1885年3月生)は1908年(明治41年)に一ツ橋の東京高等商業学校を卒業[5]。父の後を継ぎ有馬組の十四代当主となった[注 14]。清太郎の妻・ヒデ(1896年9月生)は起立工商会社パリ支店の初代支店長を務めた大塚琢造の二女。
- 三男・鷹三(1887年11月生)は東京帝大法科を卒業の後、ロンドン大学及びリーズ大学にてさらに学び、国際軍事監督委員としてドイツのキールへ赴任。有馬組(名)理事、美最時洋行[注 15]の願問兼東京代表も務めた。鷹三の妻・オルガ(1900年生)はスイスの出身、ロダン女子大学卒業。長女・恵美子(1926年生)あり[26][27]。
- 清右衛門は幾人もの養女を取っており、妻・ブン[注 16](熊井善吉長女、1869年9月生)の実妹・とら(熊井善吉二女、1872年8月生)は、清右衛門の養女となった後に東京日本橋の呉服太物商、小川屋・小川専之助[注 17]の後妻に入った。飛行家のバロン滋野として著名な滋野清武男爵の妹・足子(1891年12月生)は、清右衛門の養女となった後にアメリカ帰りの実業家・葛原猪平に嫁ぎ、同じく養女・はな(1891年5月生)は東京府士族・逸見経一郞の妹で、広島県士族・川村辰彦の長男・素彦に嫁いだ[28]。
- 義兄・山口素臣は姉・きち(1849年4月生)の夫で、日清戦争や北清事変で功を挙げた陸軍大将[29]。
- 義弟・熊井福之助(1879年生)は妻・ブンの弟。14年間の下積みを経て1906年に独立し、日本橋区薬研堀町に各種組紐製造販売の平松屋を開業。後に合資会社熊井商店とする[30]。
著書
脚注
注釈
- ^ 大倉の回想によれば、薩長の均衡に気を遣う時代であったので、長州御用達の有馬屋清右衛門に250人、薩摩御用達の鉄屋長兵衛に250人の人夫を用意させた[2]。
- ^ 長崎での荷揚げを指揮した有馬屋が薩摩の人夫に辛く当たったのを薩摩出身の帯同役人が目撃。報復で有馬屋の手代を殴りつけたところ、これに怒った有馬屋に投げ飛ばされ大恥をかく。有馬屋はその役人から命を狙われた[3]。
- ^ 後見人として吉太郞の叔父・栗山八三らも渡台[3]。鉄屋長兵衛もまたその甥を名代として向かわせ[2]、自身は東京へ帰った。当時の台湾は熱病が蔓延しており、実際500名の人夫中100名以上が落命した危険な地であった。
- ^ 日清戦争頃までは軍夫が戦地での資材や糧食の運搬などを担っていたが、以後の日本軍では正規の輜重部隊がこれを担うようになっていった。
- ^ 早川智寛の代人となり、沢井市造と同じ北海道炭鉱鉄道室蘭線を請負い成功。仙台で創業した橋本組は仙台市天文台や宮城県美術館の施工を担当するなどし令和現在も続いている。
- ^ 1857年生まれ。開拓使に入庁し幌内鉄道に関わり、日本鉄道会社では上野駅長を務めた。後に台湾総督府の鉄道顧問となり、南満州鉄道でも顧問を務める。
- ^ 1850年生まれ。村上とは共に松本荘一郎の書生をしていた時期がある。有馬組に一時身を置いた後、46歳で台湾に渡り沢井組を設立。台湾を本拠地として、南満州鉄道や台湾総督府官舎などの土木工事を請負った。
- ^ 余談ではあるが、この頃有馬組の下請けであった石材業・中野組が後のナカノフドー建設。1885年、中野喜三郎により創設された[5]。
- ^ 清右衛門は土木工事の実地に関しては力不足な部分もあったが、経験豊富な土木部長にして大番頭格の川上浅次郎が有馬組の屋台骨を支えていた。だが川上は朝鮮京義線の工事中に50代で病没してしまい、以後有馬組は衰退傾向となった[6]。
- ^ 森清右衛門 120,000円、鹿島萬兵衛 13,000円、鈴木充美 10,000円、雨宮敬次郎 6,500円、他[10]。 (社員氏名及び出資額)
- ^ 資本金:50万円、代表社員:森清太郎、本店:京城府漢江通、営業種目:土木建築請負[13]。
- ^ この頃新聞記者をしていた岸田だが、当初軍に帯同を願って拒否されている。そこで大倉喜八郎に頼み込み、その手代という名目で同行していた。これが日本における最初の従軍記者とされる[18]。
- ^ 1861年(文久元年)の和宮親子内親王降嫁の際には、徳川家茂に嫁ぐため中山道を通る大行列に提供する人手が足りない熊谷宿からの依頼で、有馬屋は乗駕籠60挺(1挺3人)、引戸駕籠50挺(1挺4人)、長棒駕籠10挺(1挺6人)、その他長持などの荷物を運ぶ人足など合わせて千人超を手配し320両2分を得ている[21]。
- ^ 1924年に叔父・熊井福之助が設立した合資会社熊井商店に出資[22]。1930年には自身が代表となり資本金40万円で合名会社有馬組を設立した[23]。ジェントルマン請負人と呼ばれた清太郎だったが、家業の再興は成らなかった[24]。
- ^ 美最時洋行(Melchers & Co.)は1806年にブレーメンで設立されたドイツの商社。1866年の香港進出を皮切りに中国各地に支店を開設した[25]。
- ^ ブンは人事興信録第8版の記述だが、第4版ではフン、第2版ではふみ、初版ではふじとなっている[16]。
- ^ その長男・専太郎は小川屋の本家へ養子に入って四代目小川専助を継ぎ、二男・萬次郎は実父の店と名を継いで二代目小川専之助となった。両名共にとらと血の繋がりはない。
出典