梅田五月梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月12日[1])- 1912年(明治45年)5月23日[1][注釈 1])は、幕末の武士(大聖寺藩士)、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、石川県会議長、石川県江沼郡大聖寺町長。幼名・又吉、八百吉[1][2]。諱・巍[1]。号・抜山、烟渚、煙渚[1][2]。1869年(明治2年)以降、五月を名乗る[2]。 経歴加賀国江沼郡大聖寺鷹匠町[1](石川県[3]江沼郡大聖寺町[4]を経て現加賀市大聖寺鷹匠町)で、大聖寺藩士・梅田専次の息子として生まれた[1][2][5]。藩学者・東方芝山から儒学を学ぶ[2][5]。選抜され越前大野藩に遊学し[2][5][注釈 2] 藩校洋学館に入り[1]、剣術を内山介輔に[2]、西洋砲術を小形元輔に[2]、洋学を伊藤慎蔵から学び[2]、蘭学七級[1]となった。1860年(万延元年)に帰藩[1]。1861年(文久元年)家督を継ぎ禄米20俵を受けた[1][2]。1864年(元治元年)江戸に出て、斎藤弥九郎、榊原鍵吉に師事し剣術の技を磨いた[1][2]。1868年(明治元年10月)越後に農兵の奇銃隊長として出兵し[2]、信濃川沿岸の農民蜂起を説諭した[2]。その後、藩の公用人、公議人代理、兵学教師、権少属、勧業掛兼務、陸軍中尉心得などを歴任した[1][2]。 廃藩置県後は、士族授産のための産業振興に尽力[1][2]。水田造成、製茶・製塩の振興、生水村での石灰製造、道路の開削、九谷陶器会社(社長)・加能汽船会社・北陸鉄道会社の創設への参画などに取り組んだ[1][2][3][4][5]。 1872年(明治5年)大聖寺町戸長に就任[1]。1874年(明治7年)石川県庁に出仕し勧業課で勤務[1]。1879年(明治12年)5月、石川県会議員に選出され[1][5]、通算8期在任し[1]、この間、同常置委員(4期)、同参事会員、同議長(第7代1891年11月-1892年11月)を務めた[1][3][4][5]。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(石川県第2区、無所属)で当選し[1][2][5][6]、同年9月の第4回衆議院議員総選挙(石川県第2区、自由党)では次点で落選し[7]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。 また1889年(明治22年)大聖寺町長、江沼郡一郡組合町村長に就任し[1][2][3][4]、その他、実業団体特別委員、世界博覧会委員、県勧業諮問委員、江沼郡会議員、大聖寺町会議員などにも在任し[1][3][4]、1896年(明治29年)石川県工業学校(現石川県立工業高等学校)長(第8代)に就任した[1][2][3][4][5]。 石川県会選挙歴
脚注注釈出典
参考文献
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