梅亭金鵞梅亭 金鵞(ばいてい きんが、文政4年3月30日(1821年5月2日) - 明治26年(1893年)6月30日)は、幕末から明治中期の作家・編集者。 滑稽本・人情本・啓蒙書・諷刺小説などを書いた。本名は瓜生政和(まさやす)、通称は熊三郎。筆名に橋爪錦造もあった。「福神漬」の命名者[1]。弟は浮世絵師の梅の本鶯斎[2]。 生涯吉田勝之丞の次男として、江戸両国薬研堀(現・中央区東日本橋二丁目)に生まれた。柳剛流の父に剣を習い、1836年(天保7年)から伊勢に3年武者修行して腕を磨き、江戸の若手剣客の雄と言われたが、1845年(弘化2年)、本郷附木店(現・本郷五丁目)の瓜生家の養子に入った。 1848年(嘉永元年)(27歳)頃、人情本の松亭金水の門弟となり金鵞の号を貰い、連日通って金水の稿の版下を書き挿絵の下絵を描き、自らも習作を試みるなどして過ごした。師に倣って人情本を書いてから、性に合う滑稽本の『七偏人』(1857年 - 1863年)で名を上げた。剣の腕は冴えても、道化た愛嬌者だった[3]。 明治維新となり、三条の教憲発布の後は、『瓜生政和』の実名で『西洋新書』『西洋見聞図解』以下の啓蒙書を出す裏で、1875年、『橋爪錦造』の筆名を使った雑誌『寄笑新聞』11冊で、御一新後の世相を諷刺し皮肉った。それが縁で、1877年(明治10年)3月、野村文雄の団団社に招かれ、諷刺漫画雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』の主筆となり、『三人同行』『春色花暦』『驥尾団子』などを連載したが、後の二つは当局の邪魔で中絶した。更に同社が1878年11月創刊した姉妹誌『驥尾団子』に『妄想未来記』などを掲載して、文明開化の世相をからかった。 その後も『驥尾団子』誌他に人情本風の作品を載せたが、次第に世に遅れ、1881年団団社の客員に退き、1884年鶴声社(書店)の編集・企画に転じた。 60歳を越えた老金鵞は、条野採菊らのやまと新聞に時に稿を寄せたものの、既に過去の人だった。 1890年(明治23年)、脳溢血に倒れて療養し、1893年に没した。72歳。『清受院釈果得浄生信士』。墓は元浅草最尊寺[1]にある。 主な文業
近年の再版・復刻
脚注
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