栗本光明
栗本 光明(くりもと みつあき、1936年3月13日 - 2013年6月2日)は、広島県府中市出身[1]のプロ野球選手(投手)・コーチ。 来歴・人物福山工業高校では2年次の1953年、夏の甲子園予選西中国大会に進出するが、1回戦で岩国高に敗退。卒業後は1955年に倉敷レイヨンへ入社し、岡山工場営繕課に勤務する傍ら、1957年から1961年まで5年連続で後楽園に出場するなどエースとして活躍。1959年の選抜京都大会では5月2日の1回戦で日本新薬を相手に5回途中からリリーフ、延長29回まで24回2/3を投げ切るが、スクイズを決められ敗戦投手となった[2]。同年の都市対抗では準々決勝に進むも大昭和製紙に9回裏サヨナラ負けを喫するが[3]、秋の産業対抗では初優勝を飾る[2]。1960年の都市対抗は2回戦(初戦)で熊谷組に惜敗したが[3]、ノンプロの台湾遠征の一員に選ばれている。1961年の成績は15試合で10勝無敗、98イニングスで自責点12、防御率1.10と優れたものであった。倉レの都市対抗3年連続出場の原動力となった栗本であったが、1958年からプロにマークされ、大毎、阪急、大洋などが交渉していたが、倉レの幹部を通して話を進めていた大毎が獲得に成功。1961年の都市対抗終了後に大毎オリオンズへ入団し、1年目から一軍で起用される。2年目の1962年6月3日には南海戦(東京)で小野正一をリリーフし、野村克也に8号本塁打を打たれたものの初勝利を記録。3年目の1963年は主に中継ぎとして坂井勝二に次ぐチーム2位の54試合に登板し、3勝2敗、防御率2.79の成績を残す。1967年は登板機会が無く、同年限りで現役を引退。 引退後は趣味であったゴルフを生かし、岡山に戻って倉敷カントリー倶楽部に就職。ここでアドバイザー、アシスタントとしての腕を磨き、1972年には故郷の福山に帰って「一文字カントリークラブ」を創立。ショートコースばかりの9ホールというミニ・ゴルフ場であったが、ここで現役時代のチームメイトであり、巨人→阪神とコーチ稼業を続けていた矢先の山内一弘と偶然にも再会。山内は「若い芽を少しでも大きく育て、枝葉にしていくには、どうしたらいいか」を追求し、貧欲な姿勢を見せていた時でもあり、山内は栗本のゴルフのコーチぶりを目のあたりにして首を傾げた。本来ならゴルフ初心者にはドライバーからマスターさせていくのが常道であるが、栗本はパットの練習からやらせていった。パットの次は短いアイアンの打ち方に入り、これをマスターさせ、豪快に振りぬくドライバーは最終コースで教えていた。栗本の「300mのドライブショットも、わずか1mのパットも1打に変わりはない。ゴルフも野球もスポーツというのは精神力を、いかに集中させるかが肝心なんだ」という持論に山内は舌を巻き、後にロッテの監督に就任した山内は「大きく派手な動きにつられず基礎をガッチリ固めてから、ジックリ教える方法は、ファームに埋もれた素材の力を出させるには最適…」と踏む。そんな山内に口説き落とされ、1979年に古巣・ロッテ二軍投手コーチに就任[4]。1981年退任[5]。 2013年6月2日、広島県府中市の自宅にて死亡しているのが発見される[6]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
脚注参考文献
関連項目外部リンク
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