柿沼谷蔵柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日(嘉永7年6月11日[1][2])- 1920年(大正9年)11月26日[2])は、上州出身の錦糸商。当主は代々柿沼谷蔵を襲名した。 経歴柿沼家は代々上州館林で魚商を営んでいたが、先々代が江戸に出て上州屋と號し綿絲商を開業。当代谷蔵は旧姓を増山といい[1][2]、上野館林藩領邑楽郡館林町(群馬県邑楽郡館林町を経て現館林市)増山清蔵の二男として生まれた。1879年(明治12年)1月、先代・柿沼谷蔵の二女・はなと結婚[1]。婿養子となり、1881年(明治14年)に家督を相続する[3]。綿糸業を継ぎ、1887年(明治20年)には日本橋区堀江町にあった店舗を小網町に移転し業務を拡大[1]。商業会議所特別議員を務め、東京瓦斯、金町製瓦(日本煉瓦製造の前身のひとつ)、下野紡績(東洋紡の前身のひとつ)、東京製糸、第一生命保険などの創設に関与した[4]。のち下野紡績の社長を務め、日本橋女学館(開智日本橋学園中学・高等学校の前身)の創立にも関わった[2]。 1916年(大正5年)に嫡男・政太郎に家督を譲る。その僅か4年後の1920年(大正9年)、不況の影響もあり柿沼家は錦糸業を廃業。政太郎はその後、東京米穀商品取引所の常務理事を務めた。谷蔵は絵画や彫刻など多数の美術品を蒐集していたが、1922年(大正11年)には300点以上の品が売りに出された。 子
脚注参考文献
|