柳沢徳忠

 
柳沢徳忠
柳沢徳忠
時代 江戸時代末期 - 昭和時代
生誕 嘉永7年閏7月11日1854年9月3日
死没 昭和11年(1936年1月26日[1]
改名 彰太郎(幼名)→徳忠
官位 従五位下信濃守正二位子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
越後三日市藩主→三日市藩知事
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢泰孝、母:松浦皓の娘
浪子堀直休の娘)
徳鄰、貴子、春子、彰
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柳沢 徳忠(やなぎさわ のりただ)は、越後三日市藩の第8代(最後)の藩主。7代藩主・柳沢泰孝の長男。母は松浦皓の娘。官位は従五位下、信濃守。幼名は彰太郎。

経歴

安政3年(1856年)4月4日、泰孝の死により家督を相続した。3歳であった。慶応4年(1868年)3月18日に江戸を出発し、4月6日に三日市へ到着した。藩財政が破綻を迎える中での、歴代藩主で初の入部であった、明治元年(1868年)7月28日、官軍に降伏した。同年8月21日、新潟で官軍を率いる小松宮彰仁親王に拝謁した。恭順後は新発田藩と軍事行動を共にしている。同年12月3日、従五位下・信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月21日、版籍奉還により三日市藩知事に就任する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[2]。昭和11年(1936年)に死去した。

栄典

家族

父母

子女

脚注

  1. ^ 『官報』第2727号、1936年2月6日。
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
  4. ^ 『官報』第1353号、1888年1月6日。
  5. ^ 『官報』第2707号、1892年7月7日。
  6. ^ 『官報』第4200号、1897年7月3日。
  7. ^ 『官報』第5998号、1903年7月1日。
  8. ^ 『官報』第8718号、1912年7月11日。
  9. ^ 『官報』第2991号、1922年7月21日。
  10. ^ 『官報』第1978号、1933年8月4日。
  11. ^ a b c d 『人事興信録 第13版下』1946、「柳沢徳鄰」
  12. ^ 『人事興信録 第13版下』1946、「柳沢彰」
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
三日市柳沢家初代
1884年 - 1936年
次代
柳沢徳鄰