柏原 (柏原市)
柏原市の北西部に位置し、柏原市の前身である南河内郡(のち中河内郡)柏原町の西側の地域である。 現在の住所表記では、本郷、今町、大正、古町、堂島町、河原町、清州、上市の各地域に該当する。 歴史・概要近代以前(日本 > 畿内 > 河内国 > 志紀郡 > 柏原村、市村新田) この地にはかつて大和川が流れ、その西側(左岸)に難波(大坂)から河内国府を経て飛鳥・奈良方面へ続く街道が通っていた。 交通の要衝であり、かつ大きな河川が合流した直後の下流に位置したため、農業地、商業地として栄えたが同時に水害にも悩まされてきた。 特に元和6年(1620年)と寛永10年(1633年)に立て続けに起こった大水害では柏原地域に壊滅的な被害をもたらした。しかし当時の代官であった末吉孫左衛門長方は、大坂・京橋と柏原の間に物資運搬船を行き来させ、その売上で地域の復興を行うことを考えた。それが「柏原舟」の始まりであり、上流の「国分舟」と合わせて19世紀末ごろまで大いに栄えた。 元禄17年(1704年)に大和川はこの地の南で西方向へ付け替えられたが、付け替えに際し、柏原近辺では水運に大打撃が出るとして反対している。 川違えによって旧河川敷は広大な敷地になり、この地においては市村新田として開墾が行われた。敷地の中央に井路川(水路)が設けられた。 しかし平野郷付近を経て大坂へ至る河川・水路が無くなり、地域の西側において水不足により干ばつとなったため、弓削村の庄屋・西村市郎衛門が幕府に許可を得ずに大和川から水を引きこんで井路川を開削した。この件で市郎衛門は捕らえられ、一家は断絶となったが、水不足は改善し、平野郷経由の船運が再開されてこの地域の経済が発展していった。 近代以前には「本郷」「今町」「上市」の三つの集落が存在した。 近代以降(日本 > 大阪府 > 南河内郡 > 柏原村 ⇒ 柏原町(のち中河内郡柏原町))
地理河川
交通
地域本郷、今町、大正、古町市町村制施行前の柏原村だった地域。旧大和川左岸・旧奈良街道に沿いに古くから栄えていた。
(本郷1~5丁目)
堂島町、河原町、清州、上市かつては大和川の川床であり、付け替え後の市村新田だった地域である。地域の北部は比較的規模の大きな工業地となっている。現在は工業地と市街地と化し、新田としての面影は残っていない。
(堂島町)
(上市1~4丁目)
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