松平直哉
松平 直哉(まつだいら なおとも[1]、なおとし[2])は、出雲国母里藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家母里藩分家10代。官職は志摩守、主計頭[1]。 明治維新後、母里藩知事、子爵[2]。東京市赤坂区区会議員、同副議長、同区学務委員などを歴任[2]。貴族院議員を務めた[2]。 略伝嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる[3]。幼名は悦之進[3]。母は側室・吉村氏[3]。 安政3年(1856年)9月、父が亡くなり、12月15日、家督を継いだ[3][1]。文久2年(1862年)12月16日、従五位下主計頭となる[3]。元治元年(1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府に懇願して10万石の格式を許されている。 明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里藩知事に任じられる[3]。明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免職された[3]。このとき東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。 明治8年(1875年)12月、島根県・母里小学校(現・安来市立母里小学校)に資金を出している[4]。 明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となった[4]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員(子爵議員)に就任し、死去するまで在任した[5][2]。 明治33年(1900年)1月3日、死去した[6][1][2]。 脚注参考文献
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