村田了阿村田 了阿(むらた りょうあ、安永元年(1772年) - 天保14年12月14日(1844年2月2日))は、江戸時代後期の俳人。名は直温、字は高風、通称は小左衛門、如春・一枝堂・春枝堂・臺麓と号す。剃髪して了阿と改める。 略伝煙草商の次男として江戸に生まれ、下谷坂本・浅草金藏寺に住んだ。国学を清原雄風に、書を沢田東江に学ぶ。和歌・俳諧・狂歌・狂詩画を能くし、博学多識で北静盧・狩谷棭斎・市野迷庵とも並び称された。行年72で没した。戒名は顕徳院一鶴了阿居士。下谷区金杉町西蔵院に墓がある[1]。 その手記の中に書賈(本屋)への不信を漏らしており、「ともすれば人を欺く故、ものを任せられない」といい、例として「大部の書には目録や付録など必ず別巻があるものだが、書賈は本文だけを分けて置いて、その別巻を売りに出す」と商売根性を憎んでいる[2]。 著作
脚注 |