村井長次村井 長次(むらいながつぐ、永禄11年(1568年) - 慶長18年11月7日(1613年12月18日))は、戦国時代から江戸時代初期の武将、加賀藩前田家の家臣。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。 出自村井家家祖で父の村井長頼は前田利家の尾張時代に家臣になった。長頼は利家が織田家を辞したときにも従い、利家の通称(仮名)である「又左衛門」から「又」の字をもらうほどであった(長頼の通称は又兵衛)。芳春院(まつ)の江戸人質の際にはこれに従って江戸に下りその地で没しており、村井家は前田家から信頼され、前田八家の一つとして家老職を務めた。村井家石高は16500石余で、家紋は丸に揚羽蝶。歴代墓地は野田山。 経歴長次は長頼の嫡男として生まれる。慶長10年(1605年)、細川忠隆と離縁した前田千世を正室とした[1]。 千世との間には実子はなく、村井家では長光(織田有楽斎嫡男長孝の次男)、女子(前田利政女)、女子(脇田兵部女)、女子(村井理斉(長頼弟)女)の養子女をとり、長次死後は長光(長家、兵庫もしくは飛騨とも言う)が家督を継いだ。 脚注 |