李銘書
李 銘書(り めいしょ、繁体字: 李銘書; 簡体字: 李铭书; 繁体字: 李銘書; 拼音: Lǐ Míngshū; ウェード式: Li Ming-shuh)は、中華民国・満州国の政治家。別号は子箴[1][2][5]。 事績1912年(民国元年)、奉天法政学校を卒業。陸軍第20師書記官となり、以後は主に奉天派において秘書などを務めた。1924年(民国13年)頃には吉林省森林局長兼採金局長の地位に在り[6]、後には吉海鉄路総弁(簡任官)となっている[2]。 1932年(大同元年)、李銘書は煕洽を補佐して満洲国建国活動に従事し、同年3月の建国に際して吉林省政府公署秘書長に任命された[1]。同年12月、吉林省政府公署民政庁長の王惕が免ぜられ、翌1933年(大同2年)に李が後任となっている[7]。1934年(康徳元年)12月1日、中央で財政部大臣に任ぜられた煕洽の後任として、李が吉林省長に昇進した[8]。 1937年(康徳4年)7月1日付で李銘書は病気を理由に退官(依願免官)し[2][9][10]、宮内府顧問官に転じた。翌月に満州拓殖公社が創設されると、その理事も兼ねている。1939年(康徳6年)10月8日、病没。享年62[3]。 仏教を篤信し、殺生や肉食を避けたとされる。また、満洲国の省長を務めた人物ながら、後年には大陸の研究者から「悪政が比較的少なかった」との異例の評価も受けている[2]。 注参考文献
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