本多忠次 (榎本藩嫡子)
本多 忠次(ほんだ ただつぐ)は、江戸時代前期の人物。下野国榎本藩主・本多忠純の世嗣であったが、早世した。 生涯榎本藩主・本多忠純の長男として誕生[1]。忠純の正室は片桐氏であるが[2]、忠次の母は「某氏」とある[1]。 本多家の嫡子(次期家督)として位置づけられ、寛永元年(1624年)、15歳の時に将軍徳川家光に拝謁した[1]。なお、通称の「大学」は父の忠純も名乗った名である[2]。 しかし、家督を相続することなく寛永3年(1626年)に17歳で早世した[1]。 忠次の死後、従兄弟に当たる政遂が忠純の婿養子に迎えられ、嫡子となった。 脚注注釈出典 |