木村駒子
木村 駒子(きむら こまこ、1887年7月29日 - 1980年7月10日)は、大正・昭和期の日本の女優、フェミニスト、神秘主義研究家。霊能者として夫とともに「観自在宗」を作って霊術治療をする一方、婦人団体「新真婦人会」を組織し、浅草新劇の女優にもなった。本名、黒瀬駒(子)。 生い立ち1887年(明治20年)、熊本市の消火器具[1]を営む家に生まれる(養女とする説も[2])。祖母は新内の名手で、母親も芸事に堪能だったことから、4歳から三味線、踊り、芝居を習い[3]、チンコ芝居(子供歌舞伎)にも出演していた[1]。裁縫学校に飽き足らず、漢学塾にも通う一方[3]、英語を学ぶため、教会にも通う[1]。 電話交換手の職を得るが[4]、知人の後援で熊本女学校(現・熊本フェイス学院高等学校)へ進学[4]。当校の校長は東京女学院の矢嶋楫子院長の姉であり、旧来の良妻賢母ではない“新しき女”の生き方を駒子に説いた[3]。1906年(明治39年)に卒業。同志社に通う木村秀雄の噂を聞いて憧れ、秀雄が渡米したことを聞くと、アメリカ留学を志してミッションスクールの福岡英和女学校(現・福岡女学院)へ進学[3][4]。このとき同性の恋人ができる[3]。その後、東京女子師範学校の受験に失敗したため、青山女学院の英文科に進学[1]。 帰国した秀雄と交際を始め、妊娠。両親の反対を押し切り、1907年(明治40年)に長男を出産、「生死」と名付ける[3]。地元誌の『熊本評論』に演劇論などを投稿する[1]。1908年(明治41年)、帝劇女優養成所の第一期生に応募したところ、芸事の経験豊富なことなどから無試験合格の通知を受けるが、夫の反対で断念する[3]。 宗教家・社会運動家・女優として1909年(明治42年)、一家で東京の麻布に引っ越す[3]。霊術治療を謳った「観自在宗」を興した夫とともに、普及活動のために各地を巡業した。二人の唱える観自在は「思ったとおりにする」という意味で、仏教の六神通を得て人心を自在にすることを目的にしていた[5]。駒子は大黒天の格好をして客を待ち受けたが、あまり儲からなかったようである[3]。 1913年(大正2年)、独身者中心だった平塚らいてうの青鞜社に対抗して、既婚女性の団体として、社会主義者、西川光二郎の妻・西川文子、預言者の宮崎虎之助の妻・宮崎光子[6]とともに小石川白山御殿坂に「新真婦人会」を開設。雑誌『新真婦人』を刊行していたが、実務家の文子が会を主導するようになったため、駒子は演劇に方向転換を図る[3]。浅草金龍館の曾我廼家五九郎一座に加入して人気女優になり、高給を得るようになる。 1917年(大正6年)、一家でアメリカに渡る。8年後に帰国し、舞踏の指導などを行なう。芸術大学創設のため三河島に仮校舎を建てるが、断念[4]。1980年(昭和55年)、92歳で没。 家族夫の木村秀雄(夢弓とも)は、駒子の進学の際の後見人だった人物の甥で、同志社中学を中退して渡米し、バークレーの大学で神学を学んだ。留学中にピエール・アーノルド・バーナード(Pierre Arnold Bernard)から秘密のタントラを伝授され、薬物によるイニシエーションも体験した[7](バーナードは“ザ・グレート・オーム”の異名を持つアメリカ人で、アメリカにヨガを紹介した初めての人物と言われている)。約1年半滞在後、帰国。故郷の熊本で催眠術や心霊術を使った新宗教「観自在宗」を立ち上げた。1935年(昭和10年)に死亡[1]。 長男の木村生死(しょうじ)は、英字新聞記者、翻訳家となる[8]。またAFP東京支局に所属し、ジャパンタイムス経済部長をつとめた[9]。矢野徹らと日本初のSF小説の専門誌『星雲』を発行、日本科学小説協会の副会長を務めた。「生死」という名前に関し、宮武外骨は、「生死無差別」から取ったのではないかと推測している[10]。駒子は「人の世の真相と真義は、“生死”の二字に摂せられる」と書いている[11]。 生死の下に長女の光明(あかり)がいたが、夭折[11]。 出典
関連項目外部リンク
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