木村栄
木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日(明治3年9月10日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。 略歴石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身[1]。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ[2]。この時の学友に西田幾多郎がいる[3]。 幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した[2]。 同年、東京帝国大学理科大学星学科に入学し、寺尾寿に位置天文学を[4][5]、田中舘愛橘に地球物理学を学んだ[4]。 1892年(明治25年)に大学院に進み、震災予防調査会の命を受けた田中舘愛橘教授の下で全国地磁気測量を始め、1895年に、嘱託として「緯度変化観測方」となり、緯度観測を行なった[2]。同年、万国測地学協会の総会において、世界6か所で国際緯度観測を行なう事業が決まり、翌1896年、田中舘とともに日本の観測地として岩手県胆沢郡水沢町を選定。1898 年(明治31年) 1月には、日本初の海外観測となるインドでの皆既日食観測に寺尾寿、平山信、水原準三郎とともに出張[6]。同年7月、ドイツで開かれた万国測地学協会総会に田中舘とともに出席し、観測する星の選び方を提案し、採用される[2]。 1899年(明治32年)に帰国し、水沢緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)の所長に就任[1]。1902年(明治35年)1月にZ項の発見論文を発表し、国際的に認められ、1904年理学博士号を取得[2]。同年、ブダペストでの万国測地学協会総会に出席[7]。1911年(明治44年)第一回学士院恩賜賞を受賞[1]。 国際緯度観測事業中央局を務めていたドイツが1918年(大正7年)の第一次世界大戦の敗戦より中央局を続けられなくなり、1922年に木村の水沢観測所が中央局に推挙され、中央局長に就任する[2]。1925年(大正14年)、帝国学士院会員となる[8]。1935年に国際緯度観測事業観測結果報告書第7巻を発行し、翌年中央局長を辞任、中央局はイタリアに移った[2]。同年、王立天文学会ゴールドメダルを受賞、翌1937年(昭和12年)に第1回文化勲章を受章した[1]。受賞のコメントは水沢の観測所官舎で行っている[9]。1941年まで水沢緯度観測所に在職し[8]、同年、国際緯度観測事業観測結果報告書第8巻を発行した[2]。 持病の喘息が悪化し、1943年(昭和18年)、東京都世田谷区の自宅で死亡、72歳[8]。墓所は多磨霊園[8]。 業績1902年(明治35年)に緯度変化のZ項を発見した[1][10][11]。 家族
著書
水沢での評価水沢VLBI観測所がある岩手県奥州市水沢では、この業績をたたえ、「Z」の文字を色々なところに使っている。
逸話
脚注・出典
関連項目外部リンク |