木寺宮康仁親王
木寺宮康仁親王(きでらのみや やすひとしんのう、元応2年(1320年)- 文和4年/正平10年4月29日(1355年6月10日))は、南北朝時代の皇族。大覚寺統の後二条天皇の孫。後醍醐天皇の皇太子だった邦良親王の子。持明院統の光厳天皇の皇太子となるがのち廃太子。官職は中務卿。号に木寺宮(きでらのみや)、禅林寺宮(ぜんりんじのみや)。後に世襲親王家の体裁を持った初期の宮家の一つとみなされるようになる木寺宮家の始祖である。 経歴元弘元年(1331年)親王宣下。元弘2年(1332年)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てて失敗して隠岐に流される(元弘の変)と、持明院統から光厳天皇が即位した。だが、鎌倉幕府は元弘の変について大覚寺統全体が関与したわけではないとして、後醍醐天皇と対立関係にある大覚寺統嫡流から皇太子を輩出して、引き続き大覚寺統と持明院統が交代で皇位継承(両統迭立)をすべきであるとしたため、持明院統もこれに同意して当時13歳の康仁親王が立太子された。だが、正慶2年(1333年)に後醍醐天皇側の反撃によって鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇によって光厳天皇と皇太子・康仁親王の否認(廃位、廃太子)が宣言された。 その後、中務卿に任ぜられたものの、大叔父・後醍醐天皇との対立は続き、足利尊氏によって持明院統の光明天皇が即位すると、これを支持した。 下向伝説康仁親王については、南朝方荘園の入野(静岡県浜松市)に下向し龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承が存在し、親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが寺内に伝存している。ただ、親王が京都付近で没したことは『園太暦』に記されているので、伝承には疑問も残るが、龍雲寺創建後に騒乱の落ち着いた後に京都に戻ったとも考えられる。 龍雲寺古文書では康仁親王は次男を出家させ京都相国寺を創建した普明国師の元で修行をさせる。親王は当時南朝荘園だった入野に下向し御館を建立、四百余石を所領し、さらに御館横に祈祷所を建立し開基となる。この時、普明国師を勧請開山、次男(明庵察公)を実質初代住職として迎える。 康仁親王は正平10年に36歳で亡くなる。龍雲寺境内地には御墳墓五輪塔が残っている。康仁親王が京都で没した事が事実であれば開山後京都へ戻り没し、遺骨の一部か全てかを龍雲寺に運んだと考えられる。その後、木寺宮家は静覚入道親王まで続くが、その後の赤津中務少輔に至るまでの二代の方が不明である。赤津中務少輔の次男(弟説あり)円堂瑞椿は龍雲寺住持についている。 系譜系図
外部リンク |