木俣守易
木俣 守易(きまた もりやす)は、江戸時代近江彦根藩筆頭家老。木俣清左衛門家の第9代当主。 家系木俣清左衛門家は、徳川家康の家臣で井伊直政に与力として付けられ、後に、彦根藩井伊家の筆頭家老となった木俣守勝に始まる家。楠木正成の孫正勝の末裔を称す。姓は橘氏。家紋は三つ盛鱗。 代々の当主は、「土佐」「清左衛門」を通称とし筆頭家老を務めた。特に、3代守明、5代守盈、10代守彝は執権職(幕政では大老に相当)に就いている。 知行高は初代守勝が4000石。2代守安が5000石。3代守明が8000石。4代守長守長が9000石。5代守盈が1万石となった。 12代畏三が、明治33年(1900年)に男爵に叙されている。 生涯寛政10年(1798年)、彦根藩筆頭家老木俣守前の子として生まれる。文化11年(1814年)9月、部屋住みながら家老となり、藩主直亮に仕えた。 文政3年(1820年)父守前の隠居により家督を相続し、彦根藩筆頭家老となる。弟の鉄三郎(直弼)を疎んじる藩主直亮の意を受けて鉄三郎を冷遇した。 嘉永4年(1851年)藩主に就任した直弼に処罰され隠居を命じられた。安政3年(1856年)1月24日死去。享年59。 人物楽焼に巧みで、茶入、茶碗、抹茶碗等の優れた作品を残している。藻刈舟と名づけた茶碗の箱書きには、隠居後の安政2年(1855年)松原村の別荘(下屋敷)で製作したことが記されている。 文人として頼山陽と親しく交際した。山陽は、天保3年(1832年)9月、彦根に守易を訪問し、帰宅した直後に死去している。 脚注参考文献
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