朝吹 英一(あさぶきえいいち、1909年(明治42年)12月22日 - 1993年(平成5年)6月14日)は、日本の音楽家・経営者。千代田組社長。日本木琴協会会長。
略歴
幼い頃に木琴を買い与えられてプロ級の腕前となり、慶應義塾幼稚舎より進学した慶應義塾大学経済学部に在学中の1927年(昭和2年)から木琴奏者としてNHKのラジオ放送に出演し、1930年にアメリカで音楽を学んだのち、大手レコード会社各社からレコードを出すなどした[1]。1933年、三井信託銀行に入社し[2]、1937年から灰田晴彦からスチールギターを習い、1940年から原田敬策(男爵原田熊雄の長男)、芝小路豊和(男爵芝小路豊俊の長男)、朝比奈愛三(雪村いずみの父親)とハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」として活動、アマチュアながら定期公演やレコードリリースもするなど活躍した。1941年、三井信託を退社。父常吉の創業した商社、千代田組[3]に入社した[2]。
戦後もしばらく「サーフライダース」の名でバンド活動を行なっており[1]、浜口庫之助、犬丸一郎、平岡精二らとともに「スウィング・サーフライダーズ」を組んだこともある[4]。
1950年に東京木琴クラブ(のち日本木琴協会)を創設し、その会長となった[4]。父の死によって1958年に千代田組に常任監査役として復帰すると、第一線の演奏活動からは遠ざかった[2]。1962年、千代田組会長となった[2]。木琴の門下生は3000人以上を数え、1989年に現役を引退した[4]。また、119曲の木琴オリジナル曲を作曲し[2][注釈 1]、1000曲を越える世界の名曲を木琴・マリンバ用に編曲した[5]。なかでも1929年に英一が初めて作曲した「軽井沢の美人」は、日本人として初めて作曲した木琴楽曲であった[5]。
家族
父は実業家で三越社長[6]や帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長を務めた朝吹常吉[6]。
母は歌人でテニスプレイヤーでもあった朝吹磯子。
前妻・文子の祖父は御木本幸吉、後妻・玉子の父は男爵尾崎洵盛。
子は、長男英和(1946年生)、次男英治(1950年生)、三男英世(1954年生)[7]。三男の英世は会社員(プロギア)で日本木琴協会会長[8]。
脚注
注釈
- ^ おもな曲に、「軽井沢の美人」、「ペンギン・ポルカ」、「きつつきポルカ」「ミッキーマウス・ギャロップ」「火華」「水玉」「雪への幻想」「二台の木琴のための序曲と華麗なギャロップ」「六甲の秋草」「ウエーバーの主題による五つの変奏」がある[2]。
出典
参考文献
- 武藤安弘(編) 編『趣味別現代人物事典 東日本版』サン・データ・システム、1978年11月。