望月嘉一
望月 嘉一(もちづき よしかず、1902年(明治35年)11月7日 - 1968年(昭和43年)6月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 戦前1902年(明治35年)11月7日、農業、望月徳次郎、せきの第七子(四男)として山梨県南巨摩郡万沢村日向集落(現南巨摩郡南部町万沢)に生まれる。小学校高等科卒業後、一年間は家業である農業に従事しながら兄と共に独学し、上京。新聞配達員として仕事をしながら私立中学校の夜学へ通いこれを修了。1922年(大正11年)8月、19歳で海軍兵学校に第53期生として入学、1925年(大正14年)7月、卒業し海軍少尉候補生として練習艦磐手乗組、1926年(大正15年)12月1日付で海軍少尉に任官、戦艦長門乗組。1928年(昭和3年)、海軍中尉、1930年(昭和5年)、海軍人事局局長の松下元海軍中将の長女、千枝と結婚。1931年(昭和6年)、海軍大尉。長女敦子出生。1935年(昭和10年)、海軍大学校甲種学生。1937年(昭和12年)、同校を卒業、駆逐艦朝霧砲術長、海軍少佐。戦艦霧島分隊長。1940年(昭和15年)、支那事変の功により勲四等旭日小綬章及び賜金を授与される。海軍省人事局局員、1941年(昭和16年)2月4日の第76回帝國議会衆議院兵役法中改正法律案外二件委員会において説明員として出席、発言を行うほか、考課表の改正などに携わった。 戦中
戦後1946年(昭和21年)3月-親類の紹介で渡辺製鋼所庶務課長、1948年(昭和23年)9月、秀美堂印刷株式会社常務取締役。1959年(昭和34年)、三笠保存会副長。 1968年(昭和43年)6月16日-午前2時15分、心不全のため死去。享年65歳。 人物
参考文献
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