早川種三早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 経歴宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。 登山やスキーに熱中し、槇有恒らとともに「1年に280日も山に入っていたときもある」というほどであった。1925年(大正14年)にはカナダ・アルバータ山への登山隊に槇と共に参加し、世界初の登頂に成功している[1](細川護立及び鹿子木員信の推挙で早川や槇が秩父宮雍仁親王にスキーを教えることになった際、親王が「アルバータ山がまだ何処の登山隊も登頂に成功していない」という話題を出したときに、早川が「金さえあれば登れます」と啖呵を切ったことがきっかけに、同席していた細川が資金の一部を提供すると述べたことでアルバータ山の登頂計画が始まったと言われている[2])。 1925年(大正14年)慶大卒業後、登山仲間とともにペンキ屋「紀屋(きや)」を起業するが、1930年(昭和5年)年末に得意先の東京建鐵が経営不振に陥り経営陣に迎えられる。これを機に早川の企業再建請負人としてのキャリアをスタートする。 戦後、日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)・佐藤造機(現・三菱マヒンドラ農機)の管財人を務め、1974年(昭和49年)に当時史上最大の倒産と言われた興人の経営破綻にあたって周囲から推される格好で管財人に推された。早川の指揮の下、興人は1989年に再建を完了した。2年後の1991年(平成3年)に死去した。94歳没。 早川の企業再建方針従業員のやる気を如何に引き出すかが重要であるとの持論を持ち、企業が経営破綻したのは従業員が働き難い環境に陥っているからだと考えていた。 興人の再建にあたっても全従業員に経営破綻の原因を分析させ、部下・特に中間管理職が経営陣に意見具申できず、結果として経営陣の暴走を許してしまったことが経営破綻を招いたと結論づけている。 従業員のやる気さえあれば如何なる思想信条も許容し、「働いてもらえさえすれば共産党でも大本教でも構わない」とまで言っている。 また、早川は企業再建に取り組みはするが、再建が完了すると経営から手を引く潔さもあった。こうした早川の経営姿勢は同じ企業再建の名手とも言われた坪内寿夫、大山梅雄とは一種好対照を示すものであり、坪内の様なワンマン的経営姿勢に対しては早川は批判的だった。 略歴
家族・親族
参考文献
関連人物脚注
外部リンク |