『日本滞在記』(にほんたいざいき、にっぽんたいざいき)は、初代駐日アメリカ合衆国総領事、タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約を締結するまでの、1855年 - 1858年の日記である。原題は "The complete journal of Townsend Harris: First American consul general and minister to Japan." Mario Emilio Cosenza が編集注解し、1930年にDoubleday, Dran社から出版された。
おもな内容
1855年
- 5月21日
- マレーシア、ペナン島で日記がはじまる。
- 7月27日
- ニューヨーク着。
- 8月4日
- フランクリン・ピアース大統領から日本駐在総領事に任じられた。
- 10月17日
- ニューヨーク発。
1856年(2月6日以後は安政3年)
- 4月2日
- ペナン発(ここからオランダ人通訳ヘンリー・ヒュースケンが同行。)
- 5月29日
- シャム国と通商条約を締結。
- 5月31日
- バンコク発。
- 8月21日
- 下田着。
- 8月25日
- 下田奉行岡田忠養と面会。「日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀である」と記述。
- 8月30日
- 井上清直が下田奉行として下田着。
- 9月3日
- 上陸し玉泉寺 (下田市)を総領事館とする。翌4日星条旗をあげる。
- 10月25日
- 江戸出府を幕府に要請する手紙を奉行に渡す。
- 10月28日
- 「下田よりも温和な気候は、これまでのところ、世界のどこにもない。」と記述。
- 11月5日
- 「労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているものはあるまい。」と記述。
1857年(1月26日以後は安政4年)
- 1月8日
- 再び江戸出府を要請する手紙を幕府に出す。「彼らは地上における最大の嘘つきである。」と記述。
- 4月1日
- 3たび江戸出府を要請する手紙を幕府に出す。
- 6月17日
- 下田御用所で日米追加条約(下田協約)を締結(米1ドル銀と日本3分銀を等価とした)。
- 9月23日
- 江戸出府が許可されたと下田奉行から伝えられる。
- 11月7日
- 日本内外の金銀の価値差を利用して、「2500ドルほどの小額の金をつくっている」と記述。
- 11月23日
- 陸路で下田を立つ。24日天城越え。25日三島へ。26日箱根越え。
- 11月30日
- 江戸着。宿所は江戸城北の蕃書調所。
- 12月4日
- 老中首席堀田正睦を訪問。将軍謁見の挨拶文を提出。答辞を受理。
- 12月7日
- 徳川家定に謁見。大統領親書を上呈。
1858年(2月14日以後は安政5年)
- 1月18日
- ハリスは日米修好通商条約草案を提示。日本の交渉全権井上清直と岩瀬忠震が自己紹介。
- 1月25日
- 第1回談判 蕃書調所で条約交渉開始。日本側は第8条(在留外国人の宗教の自由)のみ承認。
- 1月26日
- 第2回談判 第1条は保留。第2条(日本と他国の間に問題が起こり求められた場合、米国は仲裁を行う)は承認。第3条でハリスは8港の開港を要求。
- 1月28日
- 第3回談判 ハリスはすこし譲歩し5都市(神奈川、長崎、新潟、大坂、江戸)の開市を要求。
- 1月30日
- 第4回談判 江戸開市を認めるが、外国人は神奈川と横浜に住むことと日本側。
- 2月1日
- 第5回談判 前回談判の議論の続き。外国人の居住区について。
- 2月2日
- 第6回談判 京都と大坂の開市について。京都の開市は拒否。大坂の議論は持ち越し。
- 2月3日
- 第7回談判 第4条(米海軍の日本での補給)と第5条(日本貨幣の輸出許可)を承認(第5条は前年の下田協約での通貨レートとあいまって、金流出につながった)。
- 2月6日
- 第8回談判 第6条領事裁判権を合意。犯罪を犯した者はその出身国が裁く。第8条以後条約の最後までを合意。
- 2月8日
- 第9回談判 大坂開市で第3条は合意。こうして開市都市は、すでに開港されていた下田・函館以外に、神奈川、長崎、新潟、堺、江戸、大坂となった。
- 2月9日
- 第10回談判 貿易章程について。日本側は貿易の実務に暗く、ハリスの案をおおよそ認める。
- 2月17日
- 第11回談判 朝廷の許可を得るために、60日間の調印延期を日本側が要請。
- 2月19日
- 第12回談判 外交官の自由な日本内旅行の権利(第1条)を、「日本国の部内を旅行する免許あるべし」と修正。
- 2月23日
- 第13回談判 第3条の堺のかわりに兵庫を開港する。第7条の外国人の活動できる範囲を決定。
- 2月25日
- 第14回談判 貿易章程の関税率を決定。多くの品で20%。これで交渉は終了し、調印を待つのみとなった(ただしアメリカが輸入する品の関税については決定事項はなし。この点で片務的な協定税率である。ただし日本側が提案した関税率だったため、1866年の改税約書で5%に下げられるまで大きな問題にならなかった。)。
- 2月27日
- この日でハリスの連続した日記が終了(この日ハリスは発熱し、3月6日から海路で下田に1ヶ月ほど戻った)。
- 6月9日
- 日記帳の外に記された断片日記も終了。日米修好通商条約は9月に調印予定と記述(実際にはより早く、7月29日に神奈川沖のポーハタン号上で調印された)。
以後のハリスの日記は失われ、1858年7月以後の彼の行動を日記から知ることはできない。ハリスは1862年5月に日本を去った。
日本語訳
- 『ハリス 日本滞在記』マリオ・E.コセンザ 編、坂田精一訳。旧字表記
岩波書店<岩波文庫 上中下>、1953年 - 1954年、復刊1986年・2003年ほか多数