新見氏
新見氏(しんみし)は、日本の氏族。出自は三河国。通字は「正」。 新見正吉と、その子正勝が、天正年間に徳川家康の配下となり、幕末までに8家が旗本として存続した。 主な子孫に、甲府徳川家家老で江戸幕府六代将軍徳川家宣の養父新見正信、八十翁疇昔物語の著者新見正朝、長崎奉行や勘定奉行を務めた新見正榮、新見正路日記、新見文書の著者新見正路、その子で幕末の外国奉行新見正興、最後の飛騨郡代新見内膳などがいる。 概要寛政重修諸家譜によれば、清和源氏の義光流武田支流の流れをくむという。 新見の訓について、はじめ「にいみ」と称していたが、家康の命により「しんみ」と唱えるようになった[1]。 天正2年(1574年)9月、遠江国において新見正吉とその子正勝が徳川家康の配下となり、一族として天正8年(1580年)の田中城攻めに始まり、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、関東入国、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従い、軍功を上げた[2]。 江戸幕府成立後は徳川家の旗本として各職を勤め、幕末までに8家が存続した[3]。 主な知行所相模国鎌倉郡品濃村(現在の横浜市戸塚区品濃町)、近江国蒲生、滋賀三郡など。 このうち品濃村は、天正9年(1581年)より明治維新に至るまで代々治めた。現在の品濃谷宿公園前に正勝、正路の墓が残る。 系譜太字は寛政譜成立時の当主
菩提寺牛込願正寺(現在は中野区上高田に所在)。 脚注参考文献 |