新渡戸仙岳新渡戸 仙岳(にとべ せんがく、(1858年10月5日(安政5年8月29日)[1] - 1949年(昭和24年)9月26日)は、日本の教育者、郷土史家。 経歴1858年(安政5年)、陸奥国盛岡馬町(現在の岩手県盛岡市清水町)にある峯壽院住職の家に生まれる[1]。曽祖父の新渡戸姫岳は与謝蕪村に学んだ俳諧師で、諸国を漫遊した[2]。 盛岡藩の藩校作人館に学んだ後[2]、公立盛岡師範学校を経て初等教育者となる[2]。県内各地の小学校に赴任し、1887年(明治20年)気仙郡立高等小学校校長となるも[2]、1907年(明治40年)の盛岡高等女学校校長を最後に教職を辞した[3]。退職後は『巖手日報』主筆となる[2]。その後、岩手県史編纂委員長、南部藩史編纂委員、史跡名勝天然記念物調査委員などを歴任しつつ、郷土史史料の収集にあたった[2]。また1929年(昭和4年)には岩手毎日新聞の社長に就任している。 1949年(昭和24年)に収集した史料のほとんどを岩手県立図書館に寄贈し、「新渡戸文庫」として収蔵された[2]。 盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)の教え子に石川啄木、金田一京助、米内光政などがおり、特に啄木については雑誌「小天地」を発刊した際に金銭的支援をし、自ら長い評論を寄せるなどその才能を買っていた。啄木の未完小説『馬町の先生』のモデルである[4]。啄木は1909年10月に妻が長女を連れて盛岡の実家に無断で帰った際、仙岳に妻帰宅の援助を求める手紙を送っている[5]。 脚注参考資料
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