新島旧邸
新島旧邸(にいじまきゅうてい)は、京都市上京区にある、同志社創立者 新島襄の旧邸。外観に洋風を取り入れた和洋折衷の住宅で、1878年に竣工した[1]。学校法人同志社が所有・管理している。京都市指定有形文化財。 京都御苑の東南、寺町通丸太町に位置するこの邸宅の敷地は、1875年に同志社英学校が開校した土地であり、「同志社発祥の地」とされている。 歴史敷地は、1875年11月29日に同志社英学校が開校した際に仮校舎として借り受けた、高松保実の邸宅跡である[1][2]。同志社英学校は翌1876年に、山本覚馬が所有していた旧薩摩藩邸跡地(現在の同志社大学今出川キャンパス)に移転。この間の1876年1月3日に新島襄は八重夫人(山本覚馬の妹)と結婚している[2]。この時期、新島は借家住まいをしていたが、友人J.M.シアーズから礼拝堂と自宅建設のための寄付を受けた。新島は英学校を置いた土地を高松から買い取って自宅を建設し、1878年9月7日に竣工した[2]。 この家屋は、新島夫妻の私邸であるとともに、応接室が教室や礼拝堂として使われたり[3]、書斎を同志社の学生に開放し書籍を貸し出したり[4]と、さまざまに使われた。 1890年に新島襄が死去したのち、八重夫人は1907年に同志社に寄付。この家で1932年に没するまで生活した[2]。 1985年、調度・家具類を含め、京都市指定有形文化財に指定[2]。1990年に全面解体修理が行われた[2]。 建築和洋折衷式の母屋と、付属屋からなる。現在は新島会館(同志社校友会の会館)が建つ隣接地は、もともと新島邸の庭で、家庭菜園などが設けてあった[5]。 母屋設計者・施工者ともに不明であるが[1]、同志社の教員で医師・宣教師でもあったW. テイラーの助言を得ながら、新島襄自身が設計したとも伝えられている[1][2][6]。洋風住宅としては京都に現存する木造最古のものである[6]。 建物は木造2階建て[6]。外観にはコロニアルスタイルを取り入れており、三方にベランダをめぐらせ、窓には鎧戸をつけている[1]。一方で造りの基本は和風寄棟住宅であり、壁は柱を露出される真壁造り、間取りは田の字型という、日本的な構造を採用している[1]。欄間や箱階段が作られているなど、日本的要素も取り入れられている[6]。 冬に備えて暖炉をしつらえ、当時としては画期的なセントラルヒーティングを取り入れたほか、夏を快適に過ごすために床を高くして風通しを良くする工夫をし、また庇を深くしている[2]。建築当初は、全室が板張り(フローリング)で作られた[2]。大正期はじめ、八重は1階の洋間を和室(茶室「寂中庵」)に改修している[7]。 木製の腰掛式トイレを設けており、日本における初期の洋式トイレである[2][8]。 付属屋付属屋は、新島襄が両親(新島民治・とみ)の隠居所として建てた、平屋の日本建築である[2][9]。安中藩江戸屋敷にあった住居にならって建てたものと伝えられる[9]。 交通アクセス交通手段としては以下の通り[10]。 見学通常公開時には、旧邸周囲から外観のみの見学が可能である。同志社の行事(卒業式、オープンキャンパス、ホームカミングデー等)や京都御所の一般公開に合わせて特別公開(母屋1階と附属屋への入場が可能)も行われる。団体(10名以上)の見学には事前申し込みが必要。 備考
周辺脚注
外部リンク
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