斎藤孫四郎
斎藤 孫四郎(さいとう まごしろう、? - 弘治元年11月12日〈1555年12月24日〉)は、戦国時代の人物。父は斎藤道三[1]。諱は龍重[2]。童名(幼名)は勘九郎[2]。母は深芳野(一色義清女か稲葉通利女[注釈 1])又は小見の方(明智光継女)[2]。 略歴斎藤道三の二男[2][3]として生まれる。『信長公記』によると父・道三と兄弟の義龍・喜平次の親子四人で稲葉山城に住んでいたという。 『美濃国諸旧記』によれば、元服して斎藤孫四郎龍重を名乗り、弟・斎藤喜平次とともに道三に寵愛されたという。道三は孫四郎に「左京亮」を名乗らせ、跡継ぎにしようとはかった[2]。 『信長公記』によれば、弟・喜平次とともに驕り高ぶり、しだいに長兄・斎藤義龍を侮るようになったいわれる。 斎藤家の家督は天文23年(1554年)父・道三の隠居で長兄・義龍が継いでいたが、義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を案じ、弘治元年(1555年)11月12日、病を装って孫四郎らを自身のいる稲葉山城の奥の間に呼び出した。孫四郎と弟・喜平次は義龍の寵臣・日根野備中守弘就によって殺害された[2][3]。 喜平次生存説『美濃明細記』の分析により、義龍に殺されたのは次男孫四郎のみで、喜平次は生き延び、弟とされる斎藤利堯となったする説があるが[4]、この説は成立せず、やはり2人同時に殺害されたとするのが妥当とする反論がある[5]。 脚注注釈出典参考文献
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