抜き打ちテストのパラドックス抜き打ちテストのパラドックス(ぬきうちテストのパラドックス)は「未来」が関わるパラドックスである。「未来の予測できない時に起こる」けども「いつまでに起きるかという期限は決まっている」という事象は、後者の制限の存在によって、そもそも「予測できない時に起こる事象」と言えなくなるのではないか、というものである。死刑囚のパラドックスあるいは予期しない絞首刑のパラドックスとも呼ばれる。 内容次のような事例として紹介されることが多い。 ある教師が、学生たちの前で次のように予告した。 これを聞いたある学生は、以下の推論の結果「抜き打ちテストは不可能である」という結論に達した。
しかし翌週、テストは水曜日に行われた。上記の推論にもかかわらず、学生は全くテストの日を予測できなかった。 すべては教師の予告通りになった。 なお、死刑囚のパラドックス、予期しない絞首刑のパラドックスは、上記の例に出る教師を看守または死刑執行人に、学生を死刑囚に、抜き打ちテストを死刑執行に置き換えたものである。 分析このパラドックスは、「教師の宣言を信じれば不整合になり、信じなければ誤った信念を抱くことになる」という構造をもっている。 教師の宣言は、次の二つの命題に分割できる。
学生が教師の宣言を信じるかどうかによって、次の二つの場合がある。
重要なのは、矛盾が生じるのは 1. と 2. を満たすテストが行われると"信じた"ときであって、1. と 2. 自体がただちに矛盾を引き起こすわけではないということである(このことは、現実に抜き打ちテストが行われ得ることからも明らかであろう)。その意味で、このパラドックスは信念を扱う様相論理的なパラドックスであるといえる。 次の、より短い文章によって、同様のパラドキシカルな状況を引き起こすことができる。
これはムーアのパラドックスの変種であるといえる。 分析2ガードナーは次のように述べている。
例えば、「開けてごらん、卵が入っているよ」と言って男が別の男に箱を渡した場合、受け取った男は箱を開けてみるまで卵が入っているかどうかわからないが、箱を渡した男は初めから自分の予言が正しいことを知っている[1]。
これを抜き打ちテストの例で、木曜までテストが行われなかった場合に当てはめてみれば、次のようになる。「金曜までにテストが行われる」ことを信じるならば、「抜き打ちテストが行われる」ことは疑わざるを得ない。「抜き打ちテストが行われる」ことを信じるならば、「金曜までにテストが行われる」ことは疑わざるを得ない。つまり、生徒は「金曜にテストが行われる」と考える論理的な根拠も「金曜にテストが行われない」と考える論理的な根拠も持っていないことになる。したがって、「金曜にテストが行われると予想できる」と考えるのも、「金曜にテストを行うことはできない」と考えるのも誤りである。 しかし、教師は自分が金曜にテストを行うことを初めから知っているし、木曜までにテストが行われなくても、生徒が「金曜にテストが行われる」と考える論理的な根拠を持っていないことも知っている。かくして、教師の予言は成就するのである。 起源ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(『マインド』1953年1月号)によると、1940年代の初めに「絞首刑を宣告された男のパズル」というスタイルで、流布されるようになったのが起源だとしている[3]。 1943年か1944年にスウェーデン放送会社が、来週民間防衛練習が行われて民間防衛隊の能力がテストされると放送したが、当日の朝になっても誰もそれを予言することができなかったという。これをマーティン・ガードナーに報告したレナート・エクボン自身は、このパラドックスがスウェーデンの民間防衛放送より古いと信じていた[4]。 ドナルド・ジョン・オコンナーが初めて印刷物(『マインド』1947年8月号)でこのパラドックスを論じた。次の週にA級灯火管制を行うと告げた軍司令官の話になっている[5]。 オコンナーのものを含む初期の3つの論文では(灯火管制であろうと絞首刑であろうと)実施不可能という結論で終わっているが、マイケル・スクリブンが『マインド』1951年7月号で、初めて絞首刑が実施可能であることを示した[6]。 脚注
参考文献
関連文献
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