戸沢正実
戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。 生涯天保3年(1832年)閏11月17日、第10代藩主・正令の長男として生まれる。天保14年(1843年)に父が江戸にて死去したため家督を継ぐが、幼少であったために、隠居していた祖父の第9代藩主・正胤の補佐を受けた。正胤の死後は母親の桃令院が補佐したと伝わる。弘化3年(1846年)からは家老の吉高勘解由によって藩政改革が行なわれた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、はじめ新政府軍に協力したが、庄内藩に敗れて奥羽越列藩同盟に参加することとなり、新政府軍と敵対することになった。一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、間もなく反撃に遭った際に新庄藩は勝手に戦線を離脱し、同盟軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩は、新庄藩を敵と見なして新庄城を攻め落とした。この時、新庄の城下町は灰燼と化し、正実ら藩主一族や藩士らは命からがら久保田藩に落ち延びた。以後、新庄藩は新政府軍が反撃するまでの70日間、庄内藩によって占領された。この新庄藩の基本的に新政府方としての動向は、薩摩藩島津家出身であった桃令院の影響が大きいと推測される。 当初は新政府方を離脱したとして、裏切りを問われたが、薩摩藩の大山格之助を通じて釈明し許された。明治2年(1869年)6月2日、戦線離脱によって新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5,000石を加増された。同年6月には版籍奉還により、新庄藩知事となった。城は消失していたため城下の常盤町の別邸に住んだが、明治3年(1870年)8月、新庄城の仮復旧が成り、政庁と知藩事屋敷が城内に戻った。 明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって知藩事職を免職となり、8月には東京に移住した。1884年(明治17年)7月8日、子爵に叙爵された[1]。 明治29年(1896年)8月16日に死去した。享年65。 家族父母 妻 側室
子女 栄典脚注
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