戸次親家
戸次 親家(べっき ちかいえ)は、戦国時代の武将。豊後国の戦国大名・大友氏の家臣。大友氏の支流・戸次氏の当主。官位は常陸介。豊後国鎧ケ岳城主。 父は戸次親宣、妻は由布惟常の女・正光院、継室は臼杵長景の女・養孝院。 子に清田鑑綱室、一万田親泰室[9]、安東家忠室、戸次鑑連(立花道雪)、立花鑑高[10]室、戸次親方[11]正室、利光鑑教正室、戸次親繁室[12]。 ほか戸次鑑方[14]、戸次親行[15]や娘[16]がいたが、いずれ親家の実子ではない、彼の継室・養孝院が戸次一族興盛のため、他家より引き連れの子と考えられる[要出典]。 伯父に戸次親続[17]、叔父に戸次親延[18]、戸次親就[19]。 略歴大友氏庶流の戸次親宣の子として生まれた。大友氏の一門であったが、家運は大きく衰えており、本貫地の戸次庄も失って没落していた。親家の代でもその衰運を覆すことはできなかった。また、親家自身病弱で臥せがちだったため、出仕すらままならない状態も多かったという[要出典]。 1526年、大内氏が佐野親基・問田重安を豊前国に侵入させ、豊前国の要衝馬ヶ岳城を占拠した際には、病に臥せっていたため、嫡男の戸次鑑連を出陣させた。鑑連は若年でありながらも奮戦し、勲功を挙げた。息子の成長に安堵した親家は、同年に死去。家督は鑑連が継いだ。 脚注
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